その外面的狂気によって、組にとって目の上のコブであるヤクザ村川(ビートたけし)は、沖縄にある系列組織の抗争事件の援軍として行くよう命じられる。即手打ちかと想像してたのとは違い、抗争は次第に激化してゆくのであった・・・。
ヤクザモノ北野映画ではこの作品が一番だろう。少し時代は錯綜するが、「その男・・・」や「HANA-BI」、これら北野ヤクザモノはいわゆるヤクザモノによくあるドンパチがメインの切り口ではなく、ヤクザやらはみ出し刑事やら、死が日常にころがっている背景をもとに、生の歓喜・受動性と死の刹那さ・能動性とを対照的に描く心理描写が共通する点だ。
本作で特に印象深かったのは、死の刹那の象徴的な部分を用いるのみならず、生の歓喜をたっぷりもりこんだ所である。日常的に生死が近くに存在するヤクザ、その生死すらオモチャにしてしまう彼らの行為には、その生を満喫している行為にはリアリティが感じられる。見ていて本当に楽しい。ニヤニヤしてしまい、そのニヤニヤする自分がいい感じだと思ってしまう。
逆にいうなら、反面的に描かれる死にはリアリティがないということだ。それはそうなるはずで、こいつらヤクザはいちいち悲しんだり、「○○~」とか叫んだりもしない。それが当たり前のように処理されてしまう。映画なれば可能なことで、もはや一般の理解の範疇ではない。
むしろこういう刹那の部分は、生の歓喜を描く、たとえば今さっきフリスビーで遊んでいた奴が今はもう撃ち抜かれている、そういう刹那にはリアルはなく、それまでに相撲を取ったり(あのシーンは最高にいい)、空き缶で遊んだり、穴に落ちてる彼がシンクロでリアリティを感じる、そういうために用いられている気がしてならない。
だから本作の構成として、まず死を見せつけ、そしてしばらくは生の歓喜に酔い痴れ、また死によってその終止符を打つという方法がとてつもなく美しく思える。追い討ちをかけるのが久石譲の音楽と無駄のない作りだ。セリフの絞込みとマクロな画面はお馴染みだろう。
とまあ書いたが、これもまた映画的非日常の話。普段からこんな風に生死をさまよってキリキリ生きるような生き方は残念ながらできないようだ。せいぜいファンタジックな世界で死生観を巡らすのが関の山だろう。しかしこういうのは、人間としてかなり重要な部分だと思う。