働くおっさん人形・モーニングビッグ対談 その2

一方で別なベクトルの笑いがある。アクションを起こす側が「笑い」を意図していないものだ。つまりアクションの受け手(リアクション者・傍観者)だけが笑いの判断を感じる種類のものである。これについては始末が悪い。アクション者の意図がない以上、その判断はリアクション者に委ねられるためパターンは無限大だからである。その反面、リアクション者が適切な扱いをしさえすれば、無限大の可能性を持った得体の知れない笑いを作り出すという面がある。要するにこの種類の場合は、「ボケた」ポイントが基本的に存在しないため、リアクション者がうまく扱えるかどうかによって変わってくるのである。

つまりアクション者が意図していないものでも、「笑い」に転ぜられる部分をいかに見つけだすかがリアクション者の善し悪しを決定し、従ってこの場合に「面白い」「面白くない」の審判を下されるのがリアクション者に逆転してしまうところはおかしな感じだ。そしてこの(潜在的に)面白いかもしれない素材を捜し出し、適切に扱うことで笑いを作り出すという方法は結構見られる。

こういう笑いの第一人者が明石家さんまなんだろう。意図のあるなしにしろ、笑いの可能性からそれを増幅させる方法をとるのが好きみたいだし、実際「回し」の立場でそういうことをよくやっている。自分自身彼の作るリアクション者としての「笑い」のポイントで笑った記憶は一度もないが、そういう笑いの方法で、一般的に面白いということになっている状況は知っている。

やっと本題。つまり、これまではオーソドックスなボケで「笑い」を生み出してきた松本人志がこういうリアクション者としての笑いの方向を向いてきたようなのである。ここに至るまでには、「システムキッチン」や「一人ごっつ(厳密には新・一人ごっつが一番表れているが)」に代表される、「どこが笑いのポイントなのかよくわかんない笑い」というのがあった。これは否定的な見方ではなく、例えば「sound of cleaning」や「タイムスリップショッピングダウン」は多くの人が面白いと感じられるかどうかというと、それは疑わしいということである。

そしてリアクション者としてもこの姿勢は基本的に変わっていない。明石家さんまは、どんな小さい笑いの種でも無理矢理大きくしていこうとする、それゆえゴテゴテにならざるを得ない剛力な方法であるのに対して、松本は小粒は小粒として放っておき外堀から徐々に埋め最後は弾けさせてしまう感じのやや陰湿な方法であるのが微笑ましい。

働くおっさん人形は、松本が言うところの「素人ものAV」なのである。実際DVDパッケージもそれっぽさが出ていてよくわかる。構成としては、松本とおっさんとの1対1の面接形式で進行される。面接は松本が「回し」としておっさん達に次から次へと質問を出し、おっさんはその質問に答えていく。このときおっさん達に「笑い」の意図はない。中野さんのバナナの皮・自作曲、福田さんの嘘にしても、それがそのままそういう人だというだけで、そこにはなんら意図はない。これがかなり重要で、それがためにリアクション者次第で、プリミティブではあるが単純に見てておもろいという笑いが起こるのである。

これはバラエティ番組などで最近主流であろう「素人おもしろ番組」とはまったく異なる。自分自身ああいうタイプのものが本当に苦手で、実家にいるときに強制的に見ざるを得ない状況などでなければ確認したことがないのでズレているかもしれないがおおよそ見当はつく。この手の番組では一見おもしろい(とされる)素人が映し出されているようだが、その周りにはおもしろい(とされる)部分を強調した字幕と、画面端の小さな画面に笑っている人が多くの場合同時に映し出され、そこには制作者側の「笑いの意図」が丸出しにされていてどうにもいただけない。つまりこの場合では、実際はおもしろいかもしれない素人の笑いを、制作者の笑いの意図が丸つぶしにしているという、前の例で言うと「逆一周」してしまっているのである。

思えば高校の頃、休み明けの月曜日の話題が「ごっつええ感じ」から「さんまのからくりテレビ」にいつのまにか変わっていた状況はおそろしい。つまり、自分がそういう系の話題に入れなかったことではなく、なぜ「ごっつ」の洗礼を受けた者がそっちの方向を安易に受け入れることができるのかと。もっと言えば、「三宅・生瀬のワークパラダイス」が作り込み故の短命で終わり、その後引き継いだ「三宅祐司のどシロウト」が未だに続いているというのが皮肉な感じだ。していま番組HPを見ると、それにひがしのりが出てるというのもなんともなあ・・・。

続く

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