パピヨン ★★★★☆

WWII前ぐらい、無実の罪で南米・ギアナの刑務所に入れられた男が、贋札作り名人の男と共謀し脱獄を企てる話。

スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンの二大ビッグスター共演作品。当時的にもその年の目玉作品だったと思われる。見終わった後に確認のため調べたがやはり実話ベースの作品で、それがため見終わった後の感じ方もフィクションとはかなり異なってくる。

「逃亡(≒追跡)」と「無人島」は設定を与えれば勝手に面白くなる素材の顕著なもので、例えば最近大ヒットしたアメリカのドラマ、プリズン・ブレイクやLOSTはまさにそれが当てはまる。24も大きく捉えれば逃亡だ。なぜそれらが勝手に面白くなるのかと言うと、その体験自体が刺激的であるから、特別ドラマを用意しなくても場面持ちするからだろう。要するに、名優に「逃亡」「無人島」をやらせれば、高い水準の面白さは保証されるはずなのである。

その点本作は、逃亡それ自体のハラハラ感よりも、その過程における人との繋がりに光を当てた、アクション性よりヒューマンドラマ的な側面の方が色濃い。結局パピヨンは最初に説明された懲罰の内のギロチン以外、2年と5年の独房生活を過ごしたわけだが、その間にもドガを始め逃亡に関わった数名の受刑者の生活が垣間見れて、さらに実話ということでその奇縁が際立ってくる。ホンジュラスに着いたところで捕まったであろうドガもこれで終わりかと思いきや、最後の収監場所、絶海の孤島でまた二人が再会するというのは、実話であるから面白い。

映画的な一番の見所は、パピヨンの最初の独房生活ではなかろうか。独房に入ったばかりの元気な頃、隣の収監者に「顔色は悪くないか?」と聞かれたシーンがそのまま、彼自身の問題として後に再現されるシーンは技巧的であるし、その後も厳然と黙秘を続けるパピヨンの姿、根性は計り知れない。あの悲惨な描写があったからこそ、映画時間では一瞬でしかなかった次の5年の独房生活が、とてもショッキングに感じられる。実際の年月をそのように過ごした気持ちというのは到底理解できないが、あの独房シーンがあったからこそ、ラストの執念とも思える脱獄に懸ける意志の強さに結びついてくる。

およそ百年前まで、こうした非人間的労働者がいた上で本土の豊かな生活が成立していたというのは凄い歴史だ。今でも昔の植民地は経済の遅れでその名残をみられるし、形を変えた奴隷労働は世界中にまかり通っている。でも、それが世界の常識であった時代が意外と最近まで続いていたというのは、こういう映像を見ると改めて感じさせられた。

ゆきゆきて、神軍 ★★★★★

WWIIニューギニアの生き残り、昭和天皇・裕仁に戦争責任を強く感じている漢、奥崎謙三が、戦後まもなく起きた日本軍内における処刑事件を追及していく話。

一言で言えばガチである。この漢は生き方がガチ過ぎる。それ故様々な人に迷惑をかけ、手間をかけさせ、時には平和をぶち壊すクラッシャーであるのだが、そういう事情を勘案しても尚行動してしまう、せざるを得ないガチさをこの男の態度から感じ取れた。醒めた現代、この煮えたぎる怒り・熱さはその点だけでも一見の価値がある。

このドキュメンタリーで彼の本性は全く描かれてはいない。ある一面におけるガチさを映像に収めようという制作意図、そして奥崎本人も実は常にカメラや出来上がった作品を見る観客がいるのだという客観的な視点を持っているという事から考えても、変な話本作はエンターテイナー奥崎の一面を描いたのみで、時折見せる「普通の人の表情」から見て取れる彼の全体像は見えてこない。クライマックスと言ってもいい、山田から真実を引き出す奥崎のやり口はえげつないほど場慣れしており、恫喝に慣れっこである彼という存在が本当に恐ろしかった。時間的な都合もあったかもしれないが、過激な行動をメインに描く反面、例えば普段の食事や風呂・よく見るテレビ番組や本棚、冒頭登場した犬との関わり方など、少しでも素が見て取れるシーンも見てみたかった。

そういう印象もあってか、俺自身見ていくうちにどうも奥崎本人より妻・シズミの方に興味が移っていった。経営する自動車整備会社?のシャッターに「田中角栄をぶっ殺す」的な事を書かれ、マイカーはこれまた田中角栄誅殺仕様のセダンとバン、こんなガチな漢の妻が、よりによってシズミのような、誰にも好かれる肝っ玉母ちゃん的な人物というのは一体どいういうことなんだろうか。結局本作ではシズミは奥崎に心酔している従順なイエス・ウーマンとして登場するのみで、何が彼女をそうさせるのか、奥崎を許容させるのかはわからなかった。奥崎の収監中に68歳で死んでしまったシズミ、奥崎とシズミが結婚しその後の夫婦生活で何があったか知らないが、ある意味における肝っ玉母ちゃんである。

本作はWWIIで死線をくぐり生き延びた奥崎が、ある下級兵の「戦後の戦病死」という不可解な事実に対して、真実を追究する過程を収めたドキュメンタリー作品である。結論としては、戦後ニューギニアに残された残存部隊は、食べ物に窮したため人肉を食しており、原住民(土人=※現代では禁忌語)・アメリカ黒人(くろんぼ=※現代では禁忌語)・アメリカ白人(しろんぼ=※現代では禁忌語)の人肉が尽きると、日本軍の中で階級が下で役に立たないものから順番に殺して生き延びたのである。正直な感想で言うと、この衝撃的な事実に対して俺自身は衝撃を持ち得なかった。人肉食い、これが絵空事に感じてしまう、全く持ってリアルさがない事について、果たして俺は言及して良いのかどうかわからんし、例えば阪神大震災を経験したものでなければ都市型大地震の恐怖感は分からないような、雲を掴むような印象でしかないため、これは「こういう事実があったし、その事自体は衝撃的である」という感想に留めるしかない。

その追究過程で彼が一般的な感覚と大きく異なるのは法律に対する捉え方だ。撮影中何度も、彼が人をぶん殴ったり監禁状態に置いたりといった違法行為で警察沙汰になるのだが、彼はその都度自ら警察を呼んで判断を仰ぐのである。「必要であれば暴力を行使することを厭わないし、現に結果に結びつく」と断言する姿勢はやはりガチであるし、何の偶然か昨日見た「ダークナイト」のバットマンと一致する信念である。ただ一つ違う点、バットマンにとって悪である事は法律と概ね一致するが、奥崎の場合そうではないという事だ。

これをきちがい(※現代では禁忌語)、つまり他者とは気が違うため自分の価値観のみを信ずるガチな漢の生き様だと見て取るのは易い。しかし、一瞬だけ見えた(恐らく自費出版本の値段であろう)看板に書かれた\900という値段設定、そしてシズミの存在が、どうしても俺にはそう思わせてくれない最後の砦として立ちはだかっている。もしかすると(恐らくいくつか存在するであろう)奥崎関連の本や資料を見ると判断できるかもしれないが、本作でそれは難しかった。彼を変えてしまったトリガーはWWIIでの経験だろう。昭和天皇を殺すと罵り、パチンコを撃って逮捕された事を誇らしげに語る奥崎もまた戦争被害者であるし、その奥崎をきちがいと言えるような体験を俺はしていないししたくない。

ダークナイト ★★★☆☆

バットマンが悪人を懲らしめているゴッサムシティに、ジョーカーという悪がやってくる話。

「バットマン」は当然知っているが、存在を知っているのみで、原作コミックスやこれまで作られた実写映画作品も一つも見たことはない。「ああいう風体のヒーローコミックがある」という事前情報のみで、ゴッサムシティ含めたバックボーンは一切知らない上での感想となる。

まず特徴的だったのは、これはバットマンをある程度知っている人にとっては常識なのかもしれないが、「彼はみんなが憧れる正義のヒーローではない」し「絶対死なない超人でもない」という点だ。バットマンは超金持ちの青年が自らの正義感を発散させるために人材と資金を投入して作られた普通の人間を強化するプロテクトスーツのようなものであり、彼の行為は悪人を法ではなく暴力で制圧するため法の下では違法になる。従って警察やマスコミも諸手をあげて活躍を熱望しているわけではなく、どちらかといえば「彼がいるから犯罪者が増えるのではないか」という疑念すら抱かれるほど厄介者扱いらしい。その中で、恋愛感情のある女と警察の現場責任者的な人がバットマンを全面的に支持しており、二人はバットマンと素のブルースとが同一人物であることを知っているらしい。

そういう背景があって、本作は常に人間の心に芽生える正義と悪の移り変わりを大きなテーマとして描いており、その悪の象徴としてジョーカー、(法律的ではない)正義の象徴としてバットマンを配置している。この二者だけはそれぞれ悪と正義がぶれることなく、その純粋さにおいて共通しており、彼らもまた互いの心根を理解している。アクション的な対決の肝はこの二人だが、映画的な仕掛けをもたらすのはどこぞから悪を壊滅させるためにやって来た検察官・ハービーだろう。

彼は当初みんなのヒーローであり、正義の象徴であり、バットマンの事も理解し協力し互いに正義を実行していた。一方は暴力・一方は法によってである。その彼がある裏切りから正義への不信感を抱き、ついには人智を超えた境地、「運」にたどり着く。正義も悪も、人の感情が介入している限り、対象に純粋さを持っていようとも真に純粋と言えるだろうか。「運」は例えるなら真空であり、そこに人間の感情の介入する余地は無いのである。表か裏か、彼が「運」によって恋人を殺されてしまったように、その死に関わったほぼ全ての人に対して「運」を適用するのは凄く理にかなっているし、その点主人公であるバットマンや、わかりやすいピカロであるジョーカーよりも、ハービーの心の変化が面白かった。

最後バットマンは、法の下では悪になってしまうハービーを、民衆のヒーローとしてシンボル化するために、ここは一丁俺様が彼の罪を被ってやるよ!実際は正義だけどね!つってヒーローヅラこいていたが、いや待てと、お前ヒーローと素で顔を全く使い分けてるじゃねーかよと、顔を使い分けるんだから大したストレスにならんだろうと、彼の言う正義に欺瞞を感じるラストだった。


慶應義塾大学通信教育課程の噂:テキスト

 前回は、次回はレポートの評価について書くと予告していたのだけれども、やはり評価関連は主観が入ってきてまとめるのが難しかったので、今回はテキストについての話を先に書こうと思う。
 よく2ちゃんねるなどの煽り系掲示板で嘲笑されているのが、慶應通信のテキストが古すぎる、旧仮名遣いで古典のようだといったものである。これについては入学当初から疑問に思っていた。少なくとも筆者が入学した時点で経済学部の教科書で旧仮名遣いだったのは「憲法(E)」だけだったし、これについても数年後に全面書き換え(市販書に移行)したため、現在は廃止になっている。まあ確かに、1科目でも旧仮名遣いのテキストが残っているのは驚異的だともいえるし、その他の科目でも古いテキストが散見されるので上述したように言いたい気持ちもわかるのだが、一方で改訂・全面書き換えしているものも多くあるので、放置しているというほどではないのではと思っていた。
 ただ、単に古いとかそうではないとか言っているだけでも芸がないので、今回もちょっと調べてみた。幸い、2008年度の塾生ガイドにはテキスト一覧が市販書も含めて掲載されている。手元のテキストと併せて確認したところ、これに掲載されているテキスト番号のうち、ハイフン以下の4桁数字の上2桁が、科目新設・全面書き換え時の西暦の下2桁になっているようだ。たとえば今手元にある経済数学のテキストは「E001-4904」となっているので、初版発行が1949年となる(ちなみに、このテキストは1997年に改訂されているため、内容はあまり変えていないそうだが古くささは全くない)。塾生ガイドにはさらに1989年4月以降の改訂・書き換えの年月も記載されているため、少なくとも最近20年についてはテキストの発行年を特定することができる。それ以前に改訂があった場合はわからないが(改訂があったときはテキスト番号の末尾が2以上になっているようだが、いつ改訂されたまではわからない)、あったとしても少なくとも20年以上前の改訂になるということで、今回は割り切ってテキスト番号を発行・改訂年として扱った。
 なお、市販書採用科目については、最近までは市販書の発行年をテキスト番号にしていたようだが、2007年くらいから科目新設・書き換え年をテキスト番号にするよう変更したようだ。まあどちらにしても、市販書の場合は別途発行年一覧が掲載されているので、そちらの記述に従い、テキスト番号は採用していない。
 というわけで、総合・各学部ごとにまとめたテキスト発行・改訂年が以下の表となる。

分類 科目名 発行・改訂年 市販書
総合教育科目 哲学 2003  
  論理学(A) 1979  
  文学 1976  
  歴史(日本史) 1995
  歴史(東洋史) 1971  
  改訂・歴史(西洋史) 2008  
  法学(憲法を含む) 1984  
  政治学(A) 2000  
  経済学 1981  
  新・社会学 2004
  統計学(A) 1994  
  数学(基礎) 2000  
  数学(微分・積分) 1985  
  数学(線形数学) 1997
  地学 2006  
  物理学 1996  
  化学 1996  
  生物学 2005  
  英語I 2000  
  英語II 2001  
  英語III 2000  
  英語VII 1989  
  ドイツ語第一部 1973  
  ドイツ語第二部 1980  
  ドイツ語第三部 1975  
  ドイツ語第四部 1988  
  フランス語第一部 1990  
  フランス語第二部 1995  
  フランス語第三部 1977  
  フランス語第四部 1995  
  新・保健衛生 2007  
  体育理論 2006  
文学部第一類 西洋哲学史I(古代・中世) 1988  
  西洋哲学史II(近世・現代) 1953  
  論理学(L) 1977  
  科学哲学 2004  
  倫理学 1989  
  現代倫理学の諸問題 1978  
  日本美術史I 1972  
  社会学史I 1997
  社会学史II 1995
  社会心理学 2003  
  都市社会学(L) 1999
  心理学I 1979  
  心理学II 1977  
  教育学 1993  
  教育心理学 1986  
  教育史 1982  
  教育思想史 1979  
  教育社会学 1995  
  心理・教育統計学 1992  
文学部第二類 史学概論 1974  
  歴史哲学 1967  
  日本史概説I 2003
    1996
  日本史特殊I 2004  
  日本史特殊II 1992  
  新・日本史特殊IV 2003
  古文書学 1949  
  東洋史概説I 1976  
  東洋史概説II 2003  
  東洋史特殊 2006  
  西洋史概説I 1972  
  西洋史概説II 1988  
  西洋史特殊I 1972  
  西洋史特殊III 2002  
  オリエント考古学 1991  
  考古学 1988
  地理学I(L) 1962  
  地理学II(地誌学)(L) 1973  
  人文地理学 2005  
文学部第三類 国語学 1949  
  国語学各論 1968  
  国文学 1977  
  国文学史 1959  
  近代日本文学 1995  
  国文学古典研究I 2004  
  国文学古典研究II-1 1965  
  国文学古典研究II-2 1969  
  国文学古典研究III 1977  
  国文学古典研究IV 1994  
  国語国文学古典研究V 1975  
  書道 1977  
  中国文学史 2000  
  漢文学I 1996  
  漢文学II(論語) 1962  
  漢文学III(孟子) 1960  
  新・現代英語学 2007  
  英語学概論 1992  
  英語音声学 1950  
  英語史 2003  
  ACADEMIC WRITING I 1998  
  ACADEMIC WRITING II 1999  
  現代英文学 1977  
  英文学特殊 1992  
  中世英文学史 1976  
  近世英文学史 1977  
  イギリス文学研究I 2004
  イギリス文学研究II 1976  
  イギリス文学研究III 1979  
  アメリカ文学 2003
  アメリカ文学研究I 1976  
  アメリカ文学研究II 1969  
  シェイクスピア研究 1977  
  新・日米比較文化論(総論) 2004
  近代ドイツ小説 1997  
  近代ドイツ演劇 1996  
  十九世紀のフランス文学I 1996  
  十九世紀のフランス文学II 1998  
  二十世紀のフランス文学 1983  
  新・ロシア文学 2007  
  ラテン文学 1984  
経済学部 経済原論(E) 1995  
  新・経済政策学(E) 2008  
  経済史 1997  
  財政論(E) 1976  
  金融論(E) 2003
  経営学(E) 1994  
  経済変動論 1995  
  新・国民所得論
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2008  
  計量経済学 1995
  経済数学 1997  
  日本経済史 1973  
  西洋経済史(中世) 1978  
  西洋経済史(近世) 1992  
  社会思想史II 1976  
  社会政策(E) 1993  
  国際貿易論 1997  
  人口論 2000
  世界経済論 1999
  都市社会学(E) 1999
  産業社会学(E) 1975  
  地理学I(E) 1962  
  地理学II(地誌学)(E) 1973  
  経営管理論 1985  
  経営分析論 1991  
  経営数学 1976  
  商業学 2001
  保険学 1995  
  新・会計学(E) 1998
  簿記論 1976  
  原価計算 1997
  会計監査 1983  
  憲法(E) 2000
  民法 2008
  労働法(E) 1954  
  経済法(E) 2005
  新・会社法(E) 2006
法学部 憲法(J) 2000
  改訂・民法総論 2007
  刑法総論 2004
  法哲学 1954  
  日本法制史I(古代) 2003  
  国際法I 1999
  国際法II 1998  
  行政法 2005
  新・物権法 2007
  債権総論 2005  
  債権各論 2004  
  親族法 2000  
  相続法 1970  
  新・会社法(J) 2006
  商法総則・商行為法 2007
  保険法・海商法 2004
  手形法 2003
  新・刑事政策学 2008
  刑法各論 2007
  民事訴訟法 2005
  破産法 2006
  新・刑事訴訟法 2007  
  国際私法 1950  
  労働法(J) 1954  
  経済法(J) 2005
  英米法 1979  
  政治学(J) 1972  
  政治哲学 1976  
  日本政治史I(古代) 1977  
  日本政治史II(中世) 1985  
  日本政治史 1972  
  ヨーロッパ政治史 1972  
  アメリカ政治史 2005
  ロシアの政治 2005  
  現代中国論 1999
    2004
  日本外交史I 1973  
  日本外交史II 1993  
  西洋外交史 1998  
  政治思想史III 1998  
  ヨーロッパ中世政治思想 1998  
  コミュニケーション論 2006  
  産業社会学(J) 1975  
  経済原論(J) 1995  
  財政論(J) 1976  
  金融論(J) 2003
  新・経済政策学(J) 2008  
  社会政策(J) 1993  
  経営学(J) 1994  
  新・会計学(J) 1998

 これを見た限りでは、学部によってかなり差があるが、それほど古いテキストだらけではないような気がする。そこで、もう少しわかりやすいようにこれをヒストグラムにしてみた。
 まず、単純に古いものから10年刻みで順に集計し、総合教育・各学部科目別に積み重ねてグラフを作ってみた。それが以下のグラフだ。
発行年別テキスト数
 次に、テキストの古さの度合いが学部ごとに偏っているような気がしたので、学部別にテキストの古さの度合いを集計してみた。それが以下のグラフだ。
総合科目・学部科目別テキスト発行年割合
 これらのグラフを見てまずわかることは、やはり言われているほど古いテキストは多くないという点だ。確かにまだ多少残っているのは残念だけれども、少なくとも半分以上は平成に入ってからの発行・改訂であるし、近年も発行・改訂のペースは鈍っていない。ちょうど昨日、2月のニューズレターがうちに届いたが、2009年度も多くの科目が全面書き換えとなっていた。たとえば古いものでは1962年発行の地理学Iも全面書き換えとなる。いずれ大半の科目テキストは最新のものになるのではないだろうか。
 次いで確認できるのは、文学部のテキストの古さだ。他の学部では6~7割が平成に入ってからのテキストで、総合教育科目も6割近くが平成に入ってからのものである(80年代以降に広げると8割近く)。その一方で文学部のテキストで平成以降に発行されたものは半分に満たない。上の表を見ると特に第三類のテキストの古さが目立つ。これは内容が文学史や古典研究といったものだから、社会の変化に伴って改訂が必要になる経済学部・法学部と比較すると改訂の必要性が低いと判断されているのだろうか。また、市販書採用科目も極端に少ない。経済学部は36科目中12科目が市販書を採用し、法学部は49科目(テキスト数は50)中、19科目(テキスト数は20)で市販書を採用している一方で、文学部は79科目(テキスト数は80)中、市販書採用科目はわずかに9科目(テキスト数は10)である。
 慶應通信の在学生で最も多いのは文学部だ。テキストの古さについて話題に上るのも、文学部のテキストが古いことに由来するのではないだろうか。
 なお、テキスト発行年の山が近年のほかに1970年代にもできているのは興味深い。以前紹介した奥井晶氏の著書によると、1974年度から1978年度にかけて、通信制を実施していた各大学に文部省が補助金を出し、古いテキストの全面改定を行ったと記載されているため、そのときの科目なのだろう。大学通信教育の歴史も垣間見ることができた。
 というわけで、この噂についての筆者の結論は以下の通り。確かに古いテキストはまだ残っているが、特に経済学部と法学部において改訂は進んでいる。今後も、古いテキストで問題ないと判断されているような文学部の一部科目を除いては、テキストの改訂は進んでゆくのではないだろうか。
 なお、筆者は慶應通信のテキスト科目における学習のしづらさは、テキストの古さよりももっと別のところにあると考えているのだが(これは奥井氏も指摘している)、それはまたいずれ書きたいと思う。