女囚さそり 701号怨み節 ★★☆☆☆

逃げたり捕まったりする話。

「女囚さそり」シリーズ四作目。事実上のシリーズ最終作(この後も「女囚さそり」名義でいくつか作られているが、梶芽衣子主演の作品はこれが最後)にしては、というかそれがため最後になったのか、尻すぼみの終幕であった。テンションも緊張感もなく、ただ陰々滅々とした逃亡劇が繰り広げられるのみで、一言で言うと退屈この上ない。

これにはいくつか理由がありそうだ。一番大きいのが監督の交代だろう。1-3作目は伊藤俊也という監督の作品で、「女囚さそり」シリーズがほとんどデビュー作なのもあって、そのテンションと緊張感は作を重ねるごとにエスカレートし、作品ファンの期待に見事応えていた。監督交代は作風に大きく影響し、交代した監督がそれまでの流れを引き継げないまま、なんとなく雰囲気だけで描こうとするのにそもそも無理はあった。

二つ目に、本作も二作目の「女囚さそり 第41雑居房」同様1973年の”お正月映画”である。シリーズも四作目と言うことで、固定ファンも相当数見込まれ、想像の域を出ないが、興行収入面での期待も大きかったと思われる。これも監督交代の遠因にもなっているかもしれない。そういう事情もあってか、本作には田村正和と細川俊之という、当時の期待の若手俳優クラスが主役級の共演者として名を連ねている。二人はその後順調に日本を代表する俳優となった。

だがむしろ、「女囚さそり」シリーズのB級エログロアクションにとって、ビッグネーム二人は大きな重荷となった。スターゆえ、あまりにエログロい事はできないのだ。さらにそれぞれに見せ場を設けねばならず、結果的にさそりの魅力一本で押し切っていたシリーズの色は薄れ、単なる暗い逃亡アクションになってしまった。

その点、今更ながら室田日出男や小松方正の使い勝手の良さというか、メタクソに雑に扱われるが存在感ばっちりみたいな俳優のコスパの良さがよくわかる。さそりの魅力を決して損なわないが、重要なシーンでは爪痕を残す感じ、スターが必ずしも必要なわけではない、適材適所とはまさにこれである。

三つ目、過激なエログロ路線を捨ててストーリー性を重視した結果、さそりの魅力が激減してしまった。さそりは目力勝負、語らずとも伝わる魅力・勢いがあった。本作では田村正和演ずる元セクトの反権分子のサイドストーリーとつじつまを合わせるため、ラストにさそりらしさが無くなっている。「あなたの中の私を殺した」なんて殺される方にしたら良い迷惑だし、そもそもさそりには殺しの理由など語って欲しくない。語るなら目力のみ使って欲しかった。

以上、監督交代・スター俳優とのバランス・さそりらしさの減衰と、最終作にはなるべくしてなったのだなと感じられる、よいシリーズ物の最後にしては少し残念な作品となった。ただ1-3作に関しては、特に70年代B級アクション好きなら間違いなくオススメできる。同時代の作品群の中でもテンションと緊張感は抜群に高い。

女囚さそり けもの部屋 ★★★☆☆

殺人指名手配中のさそりが逃げ回る話。

「女囚さそり」シリーズ三作目。映画が始まってわずか2分、オープニングクレジット前に、刑事の片腕が庖丁でぶった斬られ!、その腕に手錠で繋がれたさそりが、斬った腕をブラブラさせたまま東京市街地をウロウロするという、おなじみのハイテンションぶりでいきなり度肝抜かれる。ただしもう三作目、”さそり慣れ”しているのでこの程度では物足りない。「おお、今作もこの路線で行くんだな!」みたいな、逆にこちらの期待感が増幅されるプラス材料に働く。片腕がぶった斬られるような、フィクションと分かっていても目を背けたくなるようなシーンが、むしろ好意を持って受け入れられるのが「女囚さそり」シリーズである。

前作までは基本的に女囚としての話で、女性刑務所の内側での出来事だったのが、本作は脱獄後一般社会に身を潜めるさそりの姿を描いている。そのため刑務所と違って街には(特に都会には)エロがはびこっているので、グロ要素よりエロ要素の方が強くなっている。刑務所内では強姦ワンパターンだったのが、売春・近親相姦・マッチ売り・堕胎など、今回はコッチ方面でやりたい放題やっている。

それにより、同じシリーズでも映画全体の雰囲気が微妙に変化した。グロの場合、殺し方や死に方で派手に見せることにより”陽”の要素もあったんだが、エロの場合、そもそも秘め事と形容するような性質のものであり、かつそれに輪をかけてアブノーマルな状況を扱っているので”陽”の要素は全く無い。今回の「女囚さそり」は激しく陰鬱である。同じ劇薬でもアッパー系のヒロポンがダウナー系のヘロインに変わった感じだ。

常に追われているという感覚もあり、緊張感を維持しているさそりの表情が素晴らしい。弛緩しているシーンはほとんどなく、唯一心を許したユキや堕胎施術の上放置されて死んでしまった女の復讐を決意する後半からは、積極的に動いて女アサシンのような雰囲気も醸し出しまた魅力増幅、ラストすべてまとめてケリをつけるシーンは前衛的でもあり、多様な印象が楽しめる作品だった。

これでも前作から8ヶ月後だからなあ。昔のアクション映画すげえ。

女囚さそり 第41雑居房 ★★★☆☆

女性刑務所の女達が脱獄する話。

「女囚さそり」シリーズ二作目。一作目を見たおかげで「見る前の心構え」は出来ていたので、作品のテンションにはなんとかついていけた。ただ本作にはさそり以上の怪物、何だかよく分からないが狂気のババアが登場し(自分で自分の腹を刺して胎児を殺すという、とんでもないアレな人)、こちらの想定をさらに凌駕する演出は素晴らしい。反面、ちょっと行きすぎというか最早悪ノリ、演出というより趣味、な過剰さも感じられ、その劇薬っぷりは同年代のB級アクション映画の中でも屈指の凶悪さだ。

Wikipediaで調べてさらにびっくりしたのは、一作目「女囚701号 さそり」が公開されてからわずか4ヶ月後にこの二作目が公開されている。つまり本作は文字通り「テンションのみ」で制作されている。しかも、これも驚きだが、公開日が1972年12月30日、”東映のお正月映画”てんだからあの時代の異様さがよくわかる。おとそ気分という言葉から察せられるように、お正月映画は軽い気持ちで(家族や友人と連れだって)サクッと見られるのが通例であり、それでも昔はこんなきちがい道まっしぐらなバイオレンスアクションをぶっ込めたのだから凄い。レイプ・拷問・強姦自慢(クーニャンを強引に云々という話はあの時代でもアウトな気がする)・チンポの歌・リンチ殺人・恥辱殺人、等なんでもありで、これがどう正月に見られたのか、非常に気になる。

内容はハッキリ言って薄い。きちんと編集すれば削れる部分を、何かしらんがわざとスローモーション使ったり(尺稼ぎか?)、逆に前後のつながりを無視した編集をしたりと、これもやりたい放題やっている。趣味と書いたのはその辺だ。悪ノリとテンポの悪さで冗長に感じるシーンも少なくない。例えば姥捨てのばあさんが呪いをかけるようなシーン(なんというシーンだ)、ストーリーとは何も関係無い。クライマックス刑務所長の処刑シーン、車につっこむ死体が明らかに人形(ビニール人形?)なのは良いとして(本作ではこんなもんは最早”ツッコミどころ”ですらない)、さそりが何遍も刺したり斬ったりしてるのに全然死なない。おまけのラストは、女囚全員で明日に向かって走るという妄想全開な趣味もあり、再度書くがこれが正月映画というのがびっくりする。

そしてさそりの無言の存在感(本作の梶芽衣子は特別かっこいい)と双璧をなす、狂気のババアの暴れぶりも面白かった。さそりの妖艶な美しさとは真逆の憎々しさがよく出ていて、本作のテンションを最後まで保てた功労者だろう。演じた白石加代子という女優さん、その後舞台を中心に活躍し(狂気の女優というのがキャッチフレーズらしい。さすが。)、近年紫綬褒章まで受章されている。白石加代子さんきっかけで本作を見た人も、この狂気には満足出来たのではなかろうか。いや期待に違わぬきちがい映画だった。

女囚701号 さそり ★★★☆☆

騙されていけにえにされた女が女性刑務所で頑張る話。

「女囚さそり」シリーズ一作目。これはちょっと、どこから書けばいいかよくわからない。うーん、、弱った。昔日本ではこのような作品が作られ、作られただけでなく、そこそこ受けてシリーズ化できてしまったという、どうも・・・・・、色んな意味でショックがでかい。

今まで見てきた70年代日本のアクション映画は、勢いある当時の雰囲気を反映しているものとして、好意的に解釈できた。例えばよくあるのが、斬られて血がありえないほどドバーッと吹き出す描写、「あーこういうの、やっててテンション上がるんだろうなあ」と、制作者の心境が想像できる。本作ではそれがまるで無い。「これ何のやつだよ!!!」と思うシーンがあまりに多く、ノリが不可解すぎて、比較的こういうのに寛容な俺でも受け入れるのがしんどかった。

要は「ツッコミどころ満載」という一言で片付けてもいいわけだが、一応こちとら「70年代日本のアクション映画」という大きな器の一作品として位置づけながら見ているわけで、そうした視点からはどうしても不可解さを「ツッコミいれて瞬間的に処理する」ではなく「解釈」したくなる。そういう意味で、あまりに謎が多すぎて処理に困り、冒頭の「うーん、、弱った。」という状態になっている。

そしてさらに悩まされるのが、これも重複するが「そこそこ受けてシリーズ化できてしまった」という事実である。当時映画館で見た人は本作の「これ何のやつだよ!!!」をどう処理したんだろうか。例えば風呂場での格闘シーン、怒りに震えた女が突如お化けのようなメイクを施しガラスの切れっ端を持ってさそりに突撃、それが教官の目に突き刺さり!、その教官は目に突き刺さったまま特に動じず女を絞め殺す!という非常に不可解なシーン、通常あんなのは笑い飛ばして処理するしかない。俺が気になったのは制作者がどういう意図でこういう演出をしたのかである。笑って瞬間的に処理するにはあまりにもったいない、本作特有の魅力があるのは間違いないんだが、それが多すぎてもてあます感じだ。

ベースはB級定番のエログロナンセンスで、おっぱいは何の前置きもなく当然のように登場する(本作では梶芽衣子のおっぱいも登場)。女性刑務所が舞台と言うこともあり、おっぱいがそこかしこに偏在するので、それが特別な事ではなくなっている。通常、おっぱいは作品のハイライトになりうるポテンシャルを秘めているが、本作では「日常の風景」なのである。これも全体の異様さに繋がっているのかもしれない。

で結局俺自身、笑って処理するしかなかったんだが、見た後ちょっともったいない気になってこういう感想になった。もし丹念に見る気力があれば、何度も見てその魅力を確かめた方が良いだろう。俺は無理だ。評価はB級最高の★3。

キャピタリズム~マネーは踊る~ ★★★★☆

リーマン・ショックや住宅バブル崩壊の影響により顕在化したアメリカの格差問題をきっかけとして、資本主義の本質を探るマイケル・ムーアの話。

本作が制作されたのは2009年、リーマン・ショックの悪影響が色濃かった時期であり、またオバマ新大統領の「Change」にアメリカ国民が期待を寄せた頃である。全体の構成としては、金融資本主義がいかに劣悪かを印象付け、共和党の「socialist」オバマネガキャンの失敗~民主主義の力~フランクリン・ルーズベルトの新しい権利章典と、民主的な新大統領の誕生により、未来への希望を見据えた作りになっている。

約2年後の2011年8月現在、果たして「Change」はなされたのだろうか。アメリカは国債発行可能限度額の上限に達しそうになり、上限繰り上げの代わりに、今後長期間緊縮財政政策を採らざるを得なくなった。紛糾した二大政党間の混乱が史上初めてアメリカ国債の格下げへとつながり、ドルはかつてほど基軸通貨の役割を果たせなくなっている。失業率は9%前後で高止まり、資産価値下落の逆資産効果が消費を冷え込ませ、最早クレジットカードで支払いを先延ばししてまで消費する事ができなくなっている。期待のオバマもグリーン・ニューディールやらゼロ金利+QEの金融緩和政策を実行したにもかからわず、持続的な経済成長には結果として結びついておらず、景気のダブル・ディップへの懸念も根強い。オバマ政権最大の課題と言ってもいい、医療保険制度(国民皆保険)改革は2010年3月に法案成立した。しかしそれも今後の緊縮財政で社会保障費が削減されると、メディケア・メディケイドの予算枠も削減される。「Change」でも逆の方に行ってしまったわけだ。

マイケル・ムーアが最後に呼びかけた「俺だけじゃ無理。みんなでやろう。」という試みであったり、オバマの「Change」は、約2年後の現時点では失敗であると言うべきだろう。むしろマクロ経済が停滞していたにも関わらず抜本的な変革がなされなかった(20年間それを見過ごした日本人が指摘するのは片腹痛いが)ため、本作の着眼点である「貧富の格差」は拡大している。また今後、その差は加速度的に広がっていくだろう。

こうした中で先日、アメリカの著名な投資家であり大富豪のウォーレン・バフェットが「超金持ちにもっと税金を支払わせろ」と、超金持ち自ら提言した (Stop Coddling the Super-Rich)。曰く、超金持ちの蓄財は主にキャピタル・ゲイン(金融商品の売買益や利息・配当)によるものであり、その課税率が所得税率に対して低すぎる(36%に対して17%)からだと言う。言い換えればアメリカはこの特例的なキャピタル・ゲインの低税率を推進力に、金融取引によって見せかけの経済成長をなしていたわけである。

資本主義は文字通り、「資本をより多く持っている方が良いだろ!!!!」というシステムだ。1年間で10億円稼ぐのに手っ取り早いのは、「1兆円を金利0.1%の銀行預金に預けて、1年間好きなように暮らし、1年後利息を貰う」事である。つまり資本が多ければ多いほど、さらなる資本獲得のオプションも増え、得られる・失う額も大きくなる。これにより「資本獲得」への動機が万人に生まれ、その結果みんな豊かになり、便利になり、素晴らしい将来が開けてくるという考え方である。

確かにこれこそが資本主義の本来の有り様であるし、過去になされたからこそ、今我々は100年前誰も持っていなかったものを持っている。物質に囲まれた暮らしが豊かであるかどうかは別問題として、これがそもそもの資本主義なのだ。問題は”過度な”資本主義なわけである。

本作では”過度な”資本主義の利得者を、主にマネーゲームで成り上がった超金持ち、被害者を家を失った一般の人々や倒産した企業の従業員として、明確に色分けして描いている。超金持ちが、貸すときはニコニコ金髪美女、返すときはシチリアン・マフィア(あれはたぶんビト・コルレオーネのパロディ)という二面性を持っているのは、単純化するとその通りだ。強制退去の現場を見ると、いかに自己責任とは言え、法律の非人間的な力に人として心が痛む。

だが、見る前に俺がマイケル・ムーアに期待したのはこんなステレオタイプな描写ではない。以上のような惨劇や収奪は、他の媒体で山ほど見てきた。あの、「ボーリング・フォー・コロンバイン」や「シッコ」のマイケル・ムーアだからこそ、一発かます何かがきっとあるだろうと期待していた。

マイケル・ムーアは空気を読まない突撃リポートを得意とする。中立な第三者として、一般に聞きにくいこともアホのふりして聞いてくれるから見る価値があった。俺が抱いた期待とは、

「なぜ超金持ちは、個人としてそんなに金が必要なのか?」

という点の追求である。だが結局突撃リポートはなかった。それどころか本作では突撃すら出来ず、せいぜい蚊帳の外からアジったり、よくわからんロープを張り巡らして「逮捕だ逮捕」とか、パフォーマンスのためのパフォーマンスをしただけである。この点は、マイケル・ムーアに期待したものが全くなかったので本当に残念だった。それだけ、超金持ちの壁は厚いということかもしれないが。

「なぜ超金持ちは、個人としてそんなに金が必要なのか?」。企業の場合、利潤追求のため資本はあってありすぎるという事はないから、際限なく金を得ようと(=企業活動をしようと)するのはわかる。また近代資本主義では禁欲的な勤勉さが結果的に資本の蓄積に繋がるため、職能集団である企業がその役割を果たせば自然と蓄財されるのも納得出来る。ただ本作に登場した、利権構造などで個人的に利益を得る超金持ち、まだミリオネア程度はわかるが特にビリオネア(10 億ドル)には、「そんなに金を得てどうするの?」という単純な疑問がある。

もちろん金がある方があらゆる点で恵まれるのは理解できる。上にも書いたが今仮に1兆円持っていれば寝てても1年間で10億円入る(ただし1兆円持っている人はこんなずさんな運用はしないと思うが)。それこそ資本主義本来の効能だ。欲も満たしやすいし長生きもできるだろう。

でも、それでも、個人で使える額には限度がある。金持ちになればなるほど、皮肉なことにお金の限界効用は逓減する。「過度な資本」は行き場を失し、特に目的はないがさらなる資本を得るためのタネ銭となるか、あるいは「無駄遣い」に消えてしまう。金が無ければ興味もないのに、金があるから自家用ジェット・大型クルーザー・一等地の大豪邸などに使ってしまう。アラブの石油王は”本当に”マンチェスター・シティが欲しかったのだろうか。もちろんこれはこれで消費活動であり経済に貢献しているのは間違いない。彼らが本来それらを求めて超金持ちになったのなら、否定できない。ただ、無駄遣いの自家用ジェットを一人が買うのと、フードスタンプを受給しているような低所得者に少しだけマシな食事を与える事の、どちらが幸せだろうか。

この”過度な”資本主義を抑制するアイデアとして、本作では一つのヒントがあった。「Shame on you」である。”過度な”資本を有する者は、潜在的に誰かを犠牲にした恥知らずとして、社会的に圧力をかけるというのだ。だがこれも間違っている。そうすると結局超金持ちは、鉄壁の防御を誇る金持ち集落に自らをエンクローズしてしまい、「Shame on you」を主張する連中を無視してしまうだろう。そもそも問題解決に対して、対立構造を助長するというのは正反対の方法だ。

自ら税率アップを提言したバフェットや、世界一の富豪マイクロソフトのビル・ゲイツは、ありあまる金の使い道が無くて、結局慈善活動家(フィランソロピスト)として消費する道を選んだ。これがまあ、現実的であり人間的な選択かもしれない。強い者こそ寛容であって欲しい。

ユニバG物語 ☆☆☆☆☆

原料バナバ100%の健康茶「ユニバG」を探し求めフィリピンのジャングルをさまよう、大神源太の話。

昔のファイル倉庫として使っている80GBの裸ハードディスクを整理していると見つけたので鑑賞。厳密に言うと映画ではなく販促ビデオだが、なぜか「映画」のフォルダに入っていたので映画だと思って見た。

ただ平常心でこんなの見れたもんではないので、夏の暑さを利用し敢えてエアコン停止・室内気温35度前後、雨上がりの湿度が高い、環境的に非常に不愉快な、それこそ東南アジアのような環境で鑑賞した。よって脳は基本的に思考停止状態であり、あるいはこういう状況の方が、詐欺に引っかかる人の心理状態を再現できるかもという淡い期待もあった。

知っている人は知っているが、大神源太氏はかつて「ジー・オー・グループ」という、俺ももう詳しくは覚えていないし、wikipedia等で調べる気もないので、適当な記述かもしれないが、ようするにマルチ商法的な錬金術で多数の人を勧誘し、後に詐欺罪で立件された?人である。ボディービルダーのようなプロテイン筋肉ボディに黒いシースルーのタンクトップ+迷彩ズボンというユニフォームが一部好事家の関心を集め、当時はマスコミ含めて大いに盛り上がった。

本作は恐らくジー・オー・グループ絶頂期(ちょうど自転車が上手いこと回り始めた頃ぐらいか)に作られた作品であり、ただの販促ビデオとは思えないほど予算がかかっている。ヘリコプターによる空撮の冒頭シーン(BGMはロッキーのテーマをギリギリ著作権侵害してないようなアレンジ)から、ジャングルの密林をさまようドキドキハラハラの展開、最後にはB級アクションではドルフ・ラングレンと双璧をなすほどの超ハリウッドビッグスター、ジャン・クロード・ヴァンダム閣下まで登場し(大神源太の親友らしい)、当時の熱気と潤沢な資金力の裏付けが感じられた。

でこのビデオだけで判断した場合、「フィリピンの貧しい人々にユニバG製造という仕事を与え、さらにユニバGでたくさんの人の健康状態が改善される。俺の夢の一つが国際貢献!」とぶちまける大神源太のメッセージはよく伝わる。詐欺師は詐欺師でおそらく自己暗示にかかっているようなものなので、彼の詐欺師としてのカリスマ性は大したものだ。

うーーん、暑い。もうこれぐらいでいいか。とにかくよかった。おわり。

女衒 ★★★☆☆

日露戦争の時代、香港で日本の対露スパイとなり、その後成り行きで東南アジアの女衒になった男の話(一応実話ベース)。

女衒という言葉は聞きなじみが無いが(NUMBER GIRLの「ZEGEN VS UNDERCOVER」という曲タイトルでしか見た記憶がない)、女郎斡旋業を意味するところから、売春防止法施行後の現代では使う機会が無いからだろう。今だとAV女優の所属事務所が類似する商売かもしれない。大抵のAV事務所のサイトには、「高収入」「アリバイ完備」「高級マンション寮」「安心」「楽しく」など、わかりやすい美辞麗句が並んでいる。AVを鑑賞する、主に男性はそれによって興奮を得られ性欲を満たし、出演するAV女優はそれら美辞麗句を享受できる。使い古された言葉で言うとWIN-WINの関係、理想的な職業ではないか・・・・。

ところが現実は異なる。美辞麗句で表面を覆うということは、そうせざるを得ない理由がある証でもある。その理由とはAVを見ると一発でわかるだろう。最近だと容姿のレベルもかなり高くなり、人気の単体女優はタレントやアイドルよりかわいい事も多い。そんな女性が不特定多数の人にセックスはもちろんフェラ・クンニ・オナニー・ごっくん・顔射・大量ぶっかけ・3P・二穴などを鑑賞される。日本の現行法ではなぜか肛門の映像使用はOK(たぶん医学的側面?)なのでボカシが入らず、綺麗な女性の菊座(この言葉結構良い)が映像として収められる。美辞麗句を享受する代わりに、これらの犠牲を払う、この点にどれくらいのAV女優が、好意的に同意しているのだろうか。

もちろんだからといってAV女優を卑下しているわけではない。俺自身AVを見た事がないかというと、山ほど見てるし、その点AV女優にお世話になっているわけで、彼女達がやっていることを否定できる分際ではない。結構、本音のところでたまげた女性達だなと思っている。ただ、例えば自分の家族や知り合いが「AV女優をやっている」となった場合、理屈では理解できても、気持ちの面で受け入れられるかとなると・・・・、今リアルに想像してみたが、完全に無理である。理屈と感情のギャップを埋めるのが、美辞麗句なわけだ。

本作でもその点を、女衒や女郎の存在意義・大義名分として用いている。明治時代、日本国民は総じて天皇陛下の御子であり、その天皇が統べる日本国発展のため、徒手空拳の女性達が自らの体を売って、家族に送金し、家族がその金で消費したり働いて税金を納める。さらに女郎街が賑わうと、それによって街も発展し日本の産業にも貢献できる。女郎は故郷の田舎で一生貧乏暮らしすることもなく、年季明け(借金完済)したら体一つで稼げる。理屈だけで見れば確かに筋は通っている。

だがこのような大言壮語は、実際に体を売る女郎達には全く響かない。感情の壁は乗り越えられない。このことを女衒達は「よ~く”言い含める”」と表現している。体を売るという事実は変えられないわけだから、せめて感情面だけでも、天皇陛下を引用し意義有ることのように見せかけて、説得しているのだ。

体は売っても心は売らない。これができたら理想的だ。女を買う男も、心まで求める場合はそうそうない。AVにしろ女郎にしろ、目当ては体や行為である。体と心の完全な分離を女性は割り切ってできるのだろうか。あるいはいわゆる”慣れ”の問題なのか。この点は男性には想像し難い。大勢の撮影クルーがいて、カメラのレンズが向けられる中、乳首の部分を丸く切り取られた競泳水着の股間をずらして(ちゃんとSPEEDO社のやつ。なぜか水泳帽は被っている)アンアンアンアン言っている異様な空間において、腰を曲げて大根を収穫しているばあちゃんの顔とか、さんま御殿を楽しげに見ているお母さんの顔とかよぎらないんだろうか。想像しただけでも身震いしてしまった。

この点、映画と離れていくつかの議論を見てみた。でも答えは出なかった。「AV女優のやってることは否定しない、でもそれが家族だと無理」この二面性はどう決着付けるべきか。散見された意見として「AV女優もその職業に誇りをもって立派にやってる。需要があるからやってる。」というのがあるが、そんな客観的な話じゃねえんだよな。そういう意見を持っている連中には「じゃあテメエのかあちゃんがAVやってたら、リアルに想像してお前どう思うよ?」と聞いてみたい。

で現時点の結論としては、自分の感情として解決はできていない。一方事実としてAVや性風俗は供給されている。この時俺自身の判断として、そういう類のものは利用しない、という選択肢がある。ただし性欲は人間すべからく持ち合わせており、たとえ俺一人が利用停止したところで、根本的な解決にはならない。供給の性欲弾力性はメチャクチャ小さいのだ。よって「感情の問題は黙殺!!!!!、大日本帝国統帥部ばりに黙殺!!!!!!、そして事実は供給の範囲内で活用させていただく」という、超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超独善的な結論に達した。こんなのこじつけであることは百も承知。AV女優さんごめん。そしてありがとう。

ストーリーは典型的なサクセスストーリーで、起承転結がそのまま栄枯盛衰になっているのでわかりやすく素直に楽しめた。残念なのがオチだ。「オチをどうするか困った」のがわかるほど酷いオチだった。

エレキの若大将 ★★★☆☆

エレキの若大将の話。

本作は加山雄三(若大将)を主役に、田中邦衛(青大将)を憎まれ敵として配したコメディ「若大将シリーズ」の一作である。通算では6作目とのこと。タイトルの通り、エレキギター/バンドをメインに描いた作品であり、その中で後にも加山雄三の代表曲となった「君といつまでも」がタイアップで何度か演奏される。シリーズの他の作品は「ハワイの・・・」「リオの・・・」など、当時は高嶺の花だったロケーションを前面に押し出したものが多いが、本作はずばり「エレキギター!」という、音楽を前面に押し出したのが特徴であろう。

制作には当時の時代情勢が影響していると思われる。ベンチャーズ・ビートルズの大ヒットにより突如日本で巻き起こったエレキブーム。関連する事柄を時系列でまとめてみた。

1960 ベンチャーズデビュー
1962 ベンチャーズ初来日/ビートルズデビュー
1965.01 ベンチャーズ来日→エレキブーム
1965.12 エレキの若大将公開
1966.06 ビートルズ来日

これでわかるのは、本作もまたエレキブームの一翼を担っていたということだ。それは本作で配役としてギターコンテストの司会役を演じた内田裕也が、約6ヶ月後のビートルズ来日公演でも前座・司会を務めている事からも察せられる。この「ベンチャーズのデンデケデケデケ→エレキの若大将→ビートルズ来日」という流れを知ると、当時の熱気も想像できてより楽しめる。ブームが起きて、それについての映画をスターの牽引力だけで、短期間に企画が通せるフットワークの軽さも、この時代ならではだろう。

ベンチャーズと言えば使用楽器はモズライトとなるわけだが、本作に登場するのは、恐らくこれもタイアップのテスコ(TEISCO)の機材だ。買えないモズライト(当時は1ドル=360円の固定レート)より買えるテスコ、ってところか。目視だがベースは確認できなかった。今や中古楽器屋・HARD OFFでさえ見ることは希なテスコのギターがメインで用いられているのも興味深い。やたらヘッドがでかくて、よくわからないスイッチがたくさん付いているテスコを今使うと結構目立つと思うが、それでも今やほぼ絶滅状態だ。

結局ヴィンテージとして残れていないのは、音に問題があるからの一点に尽きるだろう。ベンチャーズブームの影響からか、テスコのギターもかなりモズライトを意識した、サスティーンのあまり無い無骨な音だ。ただしモズライトが攻撃的なバキボキした音だとすると、テスコのはベコベコッて感じだ。「電気信号をそのまま出力しました」みたいな、良くも悪くも味付けのない出音である。この時代、実は家電の日立や松下電器(リゾネーターでないNationalギター)もギターを作っていたが、どれもテスコ的な、ベコベコな正直な音がする。

テスコは本作でも何本も登場するが、デザインは悪くないし、数寄者であればストライプのでかいマッチング・ヘッドに目を奪われるだろう。加山雄三が使用していたものはダン・エレクトロぽいし、他にも取っ手が付いていたり絵の具のパレットのような形のものがあったり、デザインの幅は広い。今でもビザ-ルギターとしての価値はあるかもしれない。ただ一般に、音の深みや伸び、ピックアップレベルでの加工も訴求される現代において、残るのは難しかった。

テスコのオリジナルと言ってもいいモズライトすら、現代ではマイナーブランドになっている。まあモズライトの場合、オリジナルのオーナーが死んだ後権利関係で色々あったようで、その辺も影響していると思うが、音が良ければ(時代に合っていれば)そんなのは関係ないので、やはり今の時代、ああいうバキボキ音は求められていないということなのかもしれない。またモズライトは前述のベンチャーズの印象がかなり強く、「モズライト=ベンチャーズ=おっさんのギター」というイメージがべったり付いてしまっているのもマイナス要因だ。

個人的にはあのバキボキ音はかなり好きだ。ただ、オリジナルメーカーがすでに存在しておらず、現在市場に流通している個体もいくつかのビルダーがあるようで(その中の一つが日本の黒雲製作所)、そんな状況で20数万出せるかとなると躊躇する。

映画とは完全に逸れたギターの話になってしまったが、ストーリーは有って無いようなものなのでどうでもいい。テスコのギターが色々見られると、若大将や寺内タケシの演奏が見られると、それだけでもいいんじゃないだろうか。中でもBlack Sand Beachは今聴いてもかっこいい。

Black Sand Beach


東京原発 ★★★☆☆

東京の中心部に原子力発電所を建設しようとする知事らの話。

震災から約一ヶ月が過ぎた。福島第一原子力発電所の事故は未だに収束のメドがまったく立っていない。メドどころか「収束に至るまでの道筋」すらも示されていない。この原因は初期段階の判断を間違って、現状原子炉を冷やすためまさに湯水の如く冷却水を注がねばならず、その汚水処理が当面の課題になっていることが大きい。今後数年は放射性物質が薄く広くまき散らされ、日本にいる限りは一定期間の摂取総量を低下させるために、日々風向・天候・水・食料品などに注意せざるを得なくなった。さらに最悪なことに高濃度汚染水を故意に海上投棄したことで、世界の見方は、日本人の国民性への賛辞→海洋汚染国家のbureaucracyへの批判へと論調が変わっている。

実際に確認したわけではないので確からしい事しか言えないわけだが、放射性物質が汚水として排出されたり大気中に拡散している状況から判断して、燃料プールの機能不全/圧力容器の損傷/格納容器の損傷/炉心溶融、いずれかまたは複合的に発生しているのはほぼ間違いない。さらに京大の小出教授によると再臨界の可能性もあるということで、大きな余震も多発しているし、本当に未来がどうなるかはまったくわからない。

また先日(20110412)ついに公式発表で事故の影響評価がレベル7に引き上げられた。チェルノブイリが「太く・短く」とすると福島は「薄く・長く」という違いはあるが、あのチェルノブイリに並んだわけだ。んーーー、改めて考えるともの凄い。今後数年、あるいはもっと、フクシマはチェルノブイリと同じように用いられる。今は無きDECOが昔面白半分に「チェルノブ」という面白いゲームを発売したが、「STALKER:Shadow of FUKUSHIMA」が出てもおかしくない状況になってしまった。

こんな状況下で映画なんか見てる場合じゃねえやと、実際ここ一ヶ月は一本も見ていないのである。震災後の状況や原発事故の映像は見ておきたいが、テレビはこんな大惨事でも相変わらずワイドショー的な取り扱いしかしないので、もう日本はいいやってことで、もっぱらCNN・WSJ・TIMEなんかでニュースを漁っている。

WSJは独自ソースに基づくニュースを提供しており、しかも日本版サイトがあるので見やすい。CNNは取材も独自に行っていて(東電の社員寮へのぶっ込みが一部で話題になった)、しかも映像ニュースを頻繁に更新しておりこちらもかなり使える。TIMEは一つ一つの記事がなんか知らんがすごい気合入ってて長いんだが、「海外メディアはこう見てる」というのがよくわかる。一応リンク貼っとくか。

WSJトピックス:東日本大震災 http://jp.wsj.com/Japan/node_196370
WSJトピックス:福島原発事故 http://jp.wsj.com/Japan/node_216000
CNN 2011 Japan Disaster http://topics.edition.cnn.com/topics/2011_japan_disaster
TIME The Japan Quake http://www.time.com/time/specials/packages/0,28757,2058716,00.html

わからない英単語は
スペースアルク http://www.alc.co.jp/index.html
黒猫の単語帳2nd http://www.vector.co.jp/soft/winnt/edu/se451231.html
黒猫の単語帳2ndは常駐してるとクリップボードの英語を自動抽出し、どっかの英語データベースから日本語訳を検索して自動表示するのでとても便利だ。

長い前置きからようやく本題に入るが、久々見る映画として数年前に見た「東京原発」をもう一度見て、改めて原発問題を整理してみたくなった。ここ一ヶ月のニワカ知識で、最初見たときより理解度は増しているのではなかろうかと。では以下感想。


結論から書くと、原子力、こと原発建設の是非の問題について一番重要なのは、「無関心では無いこと≒原発問題に関心を持ち続けること」である。

例えば今、まさに原発がリアルな(リアリティではなく)危機として認識されている・実感する今だと、渋谷のギャルでも原発問題について多少は考えていると思う。そりゃそうで、なんせ自分の問題であるわけだから(一番身近だと間接的ではあるが計画停電)、関心を持てない方が不自然だ。ただ人間てのは根本的に馬鹿で信用ならない生物であるから、仮にこのまま状況が、数年かかったとしても安定的に収束したとすると、人本来のアホさ全開で綺麗さっぱり、喉元過ぎると原発の事など忘れてしまう。雪印がメグミルクになると気にせず牛乳を飲んでしまうし、選挙が終わるとマニフェストなどどうでもよくなる。「いいじゃん、いいじゃん」で流してしまうのだ。

牛乳や選挙ぐらいならまあ、それでもいいだろう(個人的には嫌だが)。ただ原発に関しては「いいじゃん、いいじゃん」では済まないというのが、震災後の人災事故で身にしみて分かった。この「原発については無関心が悪」というのを最終的なテーマとして設定している本作は先見の明があるというか、制作陣が相当分かって作っている感じがする。つーか、今なぜこの映画が全く話題にならないのか不思議なんだがどうしてなんだろう。

でその「無関心でないこと」を持続させるために、本作で描かれた東京・新宿中央公園をぶっ潰して原発を誘致、発熱すら再利用する(コジェネ)という突飛な発想は、確かに良いかもしれない。今回の事故の経過を見るに、東京電力はなるべく人々の記憶に残らないように「東京の電力を福島や新潟の原発で作っている」ことにあまり言及せず、とりあえず目の前のクライシスコントロールや計画停電に注意を向けて目をそらさせている。

これまで我々は、原発は「なんとなく安全であり、CO2排出量の少ない、単位当たりコストも安い、化石燃料の無い日本にとっては望ましいリソースである」と信じ込まされ、無関心でいられた。震災後の事故が発生し、日本人にとってそれは「関心のあること」になると原発のヤバさが露呈している。

・なんとなく安全・一発の「想定外」の事故で世界規模の大惨事となる(現実として実証済)。

・構造上地震に耐えれたとしても、冷却システムが故障すると全く意味がない。

・そもそも地震多発の日本には不向き。

・使用済燃料の最終処理がよくわからん。地下に数万年格納?
・CO2排出量の少ないこれはたぶんその通り。今はガン無視されているが、いずれCO2排出規制絡みの問題は再燃するはず。
・単位当たりコストも安い・事故による補償の総額や社会的コストを含めるとバカ高い。

・もんじゅの大失敗で技術的未来も暗い。
・化石燃料の無い日本にとっては望ましいリソースであるこれもその通り。

要するに原発のメリット2点「CO2が少なくて化石燃料でない」ものがあればいいんだが、結局今の課題は「原発ヤバいから廃止するべきだが、じゃあ代替エネルギーはどうすんの」という事に集約される。

この点については本作でも最後の方に触れられている。とは言えいわゆる「クリーンエネルギー」の高効率化を目指そうという希望的観測に止まり、そういう意味では今の認識とさほど変わらない。

でも実際それしか無いと思う。電気というものが有効利用され始めてから約200年、原子力が利用されてからも70年ぐらいしか経っていない。たった200年なんだから、まだまだ大きな変革はいくつもあるはずで、そういう過渡期に「万一事故ったら数十年立入禁止」「プルトニウム24000年」みたいな激ヤバいシステムは使うべきではない。今はまだしょぼい太陽光・風力・地熱の効率を上げるよう、技術革新を模索するしか突破口は無い。それこそ、本作でも図で示されたが、エネルギー研究開発費の大半を占める原発研究予算を、それらクリーンエネルギー開発・導入のインセンティブとして振り替えればいいんじゃなかろうか。システムそのものは既に存在するわけだし、需要が増せば単位コストも低下するはずだ。


ヒゲのおっさんが解説に使った図を映画から引用

・・・・うーん。どう見ても映画の感想ではないな。でも今だからこそ、原発に関するニワカ知識が蓄積されて吸収力も高まっている今だからこそ、この作品は多くの人に見て欲しい。ちなみに最初に見た感想にも書いたが、原発についての解説以外の、ストーリー的な部分に関しては本当にクソなので飛ばして良いと思います。「言いたいことだけ表現できればストーリーなんぞどうでもいい」という開き直りにも思えるほど陳腐なので、逆に潔い。



S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chernobyl
steamではたまに4.99ドルで売ってます。

地獄 ★★★☆☆

兄妹関係で生まれた子供が、死んだ母親にかわって復讐する話。

こういうストロングスタイルなB級映画を、東映制作のメジャー資本でやれてたから、1970-1980年代の日本映画は後の現代にも”映画作品”として残るような、多様な作品ラインナップだったのだろう。現代の日本メジャー映画には「作ってみた結果、諸般の事情でB級になっちゃいました」みたいな大作映画は山ほどあるが、こういう狙ったB級で面白い作品は昔ほどなくなった。最近だと意図が達成されたのは「ヤッターマン」ぐらいか。それぐらい今のメジャーB級は本当に面白くなく酷い作品が多い。「丹波哲郎の大霊界」シリーズ3作また見たいなあ。絶賛絶版中。

というわけで、とってもくだらない事を名優が大集結して真面目に演じているわけだが、内容が本当にくだらないので、その分役者一人一人の演技がギャップで映える。「岸田今日子の無駄遣い」「金子信雄の無駄遣い」である。またこういう作品には、石橋蓮司や田中邦衛の雑な感じがとってもよく似合う。暗く陰湿なストーリーの割りにノリがめちゃんこライトで、バカバカしく、見ているこっちもそういう自分を客観視して尚のこと可笑しくなってくる。良いB級の良さは、「馬鹿な映画を見ている自分が馬鹿に思えてくる」というメタ的な面白さが付加されるところだ。

良いB級はまずストーリーの起伏に富まなければならない。陰湿はわかった、でも陰湿なまま一定の低温でストーリーが進行すると、「単なるつまらない」作品になってしまう。ストーリーそのものがつまらないのはB級以前に面白くない作品だ。B級はB級で中々難しいもので、良質なコントと同じように「馬鹿なことを大まじめにやる」のがとても重要である。最近の日本メジャーB級ではこの点を大いにはき違えていて、「おちゃらけて大騒ぎすればいいんだろ」ぐらいのノリでまさに”B級テイスト”でやっちゃうもんだから始末が悪い。

「んなアホな」「そんなわけねえだろ」と一々つっこむのも憚れるほどの潔いクソぶりが実にお見事な作品だった。今作ってもどうせ地獄のシーンはCGでやっつけるんだろうなあ。いやこの根性お見事。あっぱれ。今後もどんなに時間の浪費であろうと、こういうB級を難なく見れるぐらいの精神的余裕はキープしておきたい。そういう意味では、今の自分の精神状態は如何様か知るのに、レファレンス的に用いても良いかもしれない。

主題歌は山崎ハコの「きょうだい心中」。