慶應義塾大学通信教育課程の噂:評価(その3 試験)

前回に引き続き慶應通信の話でも。今回が評価についての最後の記事となる予定。最後のテーマは試験の難易度だが、例によって「大学通信教育つれづれ」のsanno氏が直近の記事で的確な指摘をされている。この記事を読めば筆者の記事など読む必要はないのだが、せっかくだから書く。

レポートと比較すると、試験の難易度はそれほど高くはない。少なくとも経済学部の専門科目では、大半の科目がテキストの範囲もしくは履修要項であらかじめ試験出題用と指定された参考文献の範囲から出題されており、履修内容とのギャップは少ない。よって試験対策も、過去問で出題傾向を把握した後は何度もテキストを読んで理解する(暗記する、ではない)ことで、基本的には合格点がとれるだろう。

もちろん例外もあって、経済史のように、それってテキストでは半ページしか記載がないだろ、どうやって論述するんだ、という出題があったり、時事問題と絡めた出題をするようなひねりをきかせたがる科目もあるが、全体としては少数派だ。

試験のレベルとしては基本的な事項を問われることが多いようだ。スクーリングの試験の場合だと講義で触れた多少高度な話題が出る場合があるが(多くはない)、講義という手がかりなくテキストをまんべんなく学習させるテキスト科目では、そこまでやるのは酷だと考えているのかもしれない。

スクーリングの話題に触れたところでスクーリングの難易度についても触れておこう。スクーリングの評価は大半が試験でもあるし。

スクーリングは上でも触れたように基本的に講義の内容からしか試験が出題されないため、難易度はそれほど高くないと思われる。特に夏期スクーリングは期間が短いことと基礎科目の講義が多いこともあって、内容的にもそれほど高度なものが出された記憶がない。密度は濃くてもやはり短期間なので、高度な内容を出しても消化不良になってしまうことを講師の方もご存じなのだろう。「発展的な内容は夜間スクーリングでやります」と公言していた講師もいらっしゃった。結果、筆者の周りでは語学以外で落ちたという話を聞いたことがない。筆者自身も評価はすべてAかBである。ただし語学(というか英語)は当たり外れが激しい。筆者はどちらも当たりの講義だったが、外れを引くと悲惨である。場合によっては最初からあきらめてしまう方がよいかもしれない(英語力をつけるなら外れ科目の方がよいのかもしれないが)。

というわけで、以上で評価についての考察を終える。一言言えるのは、筆者の主観では、理不尽に難しいのは例外的にあるかもしれないが、それ以外はごく普通の難易度だということだ。ただ難易度はその人のそれまでの経験によって感じ方が大きく異なるので、高卒から入学した場合は面食らってしまうかもしれないなあというのは感じる。

鬼畜 ★★★★☆

昔の女との間にできた三人の子供を押しつけられ、今の女と共謀し子供をなんとかしようとする男の話。

表現の規制(自粛・自主規制)が、表現そのものにとっていかに足かせ・ボトルネックとなるかが、本作を見るとよくわかる。演技とは言え三人の子供に対する仕打ち、いじめ、疎外感、家庭内暴力は、今の世情で製作するとなると、子供の人権が、だの、トラウマうんぬん、PTSD、などなど、「諸々の事情」でそれらしい雰囲気を演出するに止まるだろう。

しかし、本作におけるまさに鬼畜な二人の人物描写は、子供に対する非道な行いを通してしか見る側に対して伝わらないと思う。ストーリーはなんのことなく、ただ愛人に愛想尽かされて子供を押しつけられた男と今の女がその子供をどうにかするという、何の仕掛けも奇抜さもない、どストレートなものだ。ほとんど見た事はないが、よっぽど今の火サスのようなテレビ2時間サスペンスドラマの方が、ストーリーの起伏に富み、トリックもあり、面白味はあるかもしれない。ただそれが小手先の幼稚なものに感じられるほど、本作の鬼気迫る描写がもたらす本気度の高さは、たとえ現代の基準では人権蹂躙であろうと、あのむごい仕打ちを隠さず描く事で表現されている。女の苛立ちを描くのに口に飯をぶっ込む事は、どうしたって必要だ。

冒頭からして凄い。切羽詰まった女の表情、押しかけ対決する二人の女、そこに重なるしょぼい男、この20分程度の導入部分はよく目が詰まって凝縮されていて、三者三様かっこいい。小川眞由美という女優さんをあまり知らなかった(なんかどっかで見た事あるけど、何の人だったかな~程度)ので、見た後調べてわかった事だが、小川眞由美と岩下志麻はこれ以前に共演することが多かったらしく、それが本作における素晴らしい啖呵切りの、見事に呼吸のあった最強さに繋がっているのかもしれない。

現代でも家庭内暴力は時折ニュースとして見るので、こういう事は現実に起こっている。知らないガキが常に家にいて自分を苦しめるうっとうしさ、我が子を暗黙的に殺害したり、捨てたり、海に突き落とすために旅行する、この心理は、今の俺のリアルにはならず、時代性もありリアリティも薄かった。ただ、今まさに自分の問題として本作のような状況を抱えている人が見た場合、それはリアルにも重なり、また時代を超越した心理状況においてリアリティを持てるだろうから、不謹慎ではあるが、そういう人の感想を見てみたい気にもなった。つーかこの発想、ちょっと鬼畜だな。


ブレス ★★★☆☆

何度も自殺未遂を繰り返す死刑囚のもとへ面会に通う、家庭崩壊寸前の女の話。

キム・ギドクのファンタジーということで、主役二人は言葉をほとんど発さない。男に至っては一言もなかった。ただし通常(ギドク作品の)そうすることが独特のファンタジー世界演出ということだったが、本作の場合自殺しようとして咽に鋭利なものを突き刺したのが原因のため、物理的に話すことができない。

女は、心の離れた夫の代わりを求めて、死刑囚の男に会いに行ったのだろうか。発作的に始まった逢瀬、最初彼女は自分の鮮烈な記憶を話すことで、まず秘密を共有し言わば人工的に恋愛関係を構築していった。次の春・夏・秋それぞれの変な歌3連発は、夫との関係の中で記憶に残るシーンを模してある。

そこであの歌なんだが、恐らくだが(曲調から推測)韓国における、日本で言うところのポピュラーなアイドル歌謡(ex.木綿のハンカチーフとか瞳はダイアモンドとか)であって、歌と当時の記憶が結びつきやすい類の、ポピュラーソングだと思われる。それを唐突に、壁紙や小道具まで用意して歌ってしまうのは、良かった時代の記憶にすがりたい心境なのかもしれない。ベルが鳴って死刑囚の男がいなくなってからの、壁紙をベリベリ剥がす時の無表情は、過去の理想的非現実から、今の絶望的な現実へ戻される、コントラストから生じたものだ。

だから、最後の冬の歌を歌うのが家族関係を修復した親子三人になるのは、あまりに悲惨な印象が残る。結果から逆算すると、死刑囚の男は夫婦関係修復のための手段として用いられたということになり、さらに彼が一家殺人で死刑となったこと、家族三人が車内で歌っているのとは対照的に、雑居房の同居者から絞め殺されるという対比は酷に感じた。

というのは、彼がなぜ一家殺害をやってしまったのか、その理由がわからなければ、まず彼女を受け入れたこともそうだし、こうして無碍に殺されるに値するのかどうかも、見ている側は判断の材料がない。ここで、キム・ギドク的無声の弊害が出てしまう。保安課長が許可し、成り行きを静観したのもよくわからないし、いくつか謎が残ったままの終幕となった。