蒲田行進曲 ★★★★☆

スター俳優・銀ちゃんと、大部屋俳優・ヤスの話。

オリジナルが舞台作品ということで、映画とは言えかなり舞台を意識した作りになっている。俳優の演技は大袈裟で外連味たっぷり、BGMも押しつけがましく、クライマックスシーンも一画面に収まる。舞台はよくわからんが一週間とか長いと一月とか上演するようだが、階段落ちは毎回実演したのだろうか。

この押しつけがましいケバさは、結果的には映画全体の熱気となってプラスに作用している。なんつーか、あの奥崎謙三の「わかってやってるガチさ」に通ずるガチさというか、最後劇中劇のネタ晴らしでもわかるように、演技することを強調してみせたのが、テンポの良さに繋がっていた。

スターである銀ちゃんはシンボル、何が何でも存在を守るべき対象である。大部屋はスターのためにいるし、その言葉は絶対的、わたくしを捨てねばならない。だから強く結びついているように見えても、互いの心根は理解できない。階段落ちの前、ヤスが意図的にゴネてみせたのも、この大勝負の前に銀ちゃんに存在をアピールしたかったのかもしれない。「ヤス、あがってこい!」でケバさはピークに達するが、ここまでくると俺自身は性格的に引いてしまった。熱さが空回りせず全体の推進力となっている良い映画だった。

バートン・フィンク ★★★★☆

WWII前後、ニューヨークの舞台劇で成功しハリウッドに迎えられた脚本家が苦悩する話。

仕掛けは多い。疑い出すとキリがない。ラスト、ホテルを後にしたバートンが海岸にいると、突然女性が歩いてきてバートンの前に座る。するとまるでバートンが滞在したホテルの壁に掛かっていた、浜辺にたたずむ女性の絵と同じような構図になる。しばらくして、鳥が海に潜ってエンド。ここだけ見ても示唆に富んでいる。

デジャブのように、なんもない浜辺に座っていると、急に美女が歩いてきて自分の斜め前に座る、なんてのは現実としてありえない。だとすると、浜辺の美女はバートンの妄想だと言うことになる。海に潜った鳥は、その女性以外が現実である事を示している。脚本家であり、ストレスの発散時やダンスシーンでわかるように、「クリエイター」という意識が非常に強いバートンにとって、妄想が膨らんで現実と重なるのは、無くはない事だ。

するともう、このストーリーはわけがわからなくなる。細かい部分では、蚊・ホテルの異常な暑さ・外壁からしみ出る糊のようなもの、バートンの目にとまる奇妙な光景は、彼の妄想かもしれない。知り合ったばかりの女性が、バートンのような奇抜な風貌の男の部屋に、呼び出してすぐに来るだろうか。朝起きて、横を見るとその女性が血まみれで死んでいるなんて、クリエイターにとっては非常にエキサイティングな状況だ。ひょっとして、チャーリーや、ハリウッドに来たことすらもバートンの妄想かもしれない。チャーリーに渡された箱は、いわば「現実」のシンボルであって、バートンが「チャーリー」の私物である箱を「開けない」のは、そこに現実が詰まっているから、深読みすると、酷い戦争が詰まっているからという事になるかもしれない。

以上は俺の想像(妄想ではない)であって、コーエン兄弟の狙いは全く違うかもしれないし、そもそも狙いなんてなく、示唆に富んだ仕掛けを張り巡らせれば、見る側が勝手に解釈してより良い着地点を見つけるだろうと、見る側に評価を丸投げしているかもしれない。沈黙は金とはよく言ったもので、ある妄想を、雄弁な連中に想像させれば、勝手に良い方にまとまるのである。落語にもこういう噺はあった。見終わって調べてから分かったことだが、実際本作は1991年度のカンヌでパルムドールを含む三部門を受賞している。

この「カンヌ」つーのがわかりやすいつーか、映画を熟知した批評家連中にとって、本作は雄弁に語るのにうってつけな素材だったのだろう。そこまで見越してコーエン兄弟が製作したとすると、月影先生言うところの「恐ろしい子」になるが果たして。

武士道残酷物語 ★★★★☆

江戸時代から昭和30年代まで、自分の先祖の残念な人生を振り返っていく話。

江戸時代の封建社会の理不尽さを描いた作品。極端ではあるが、こういうの見ると昔ってすげえと思う。主君が死んだら、主だった家臣が後を追って殉死する。流石にこの風習は江戸の初期、第4代の家綱の時代だったかに法律で禁止されたが、戦国時代あたりから少なくとも家光の時代までは、殉死が「忠義を示す絶好の機会」として捉えられていたということだ。あーーーーー、すげえなやっぱ。

つまり死は家を繁栄・維持させる手段である。個人は家の中に埋没し、その家は世間を形成して国のために存在し、その国は大名のためにある。ここでようやく個人(大名=主君)が家に先立つ。大名の上には徳川幕府があり、頂点に個人(将軍)がいるが、江戸時代の日本は実質的には一つの強力な国がある連邦国家のようなもので、各藩の政治体制は極端なトップダウンだ。トップダウンの場合、トップの資質が優れていれば、民主/共和制よりよほど機能する。逆の場合は最悪で、本作のようになる。

特に酷かったのは天明期の田沼時代、剣の達人である先祖が、まず自分の弟子と結婚させる予定だった娘を身売り同然に江戸に送られ、妻に殿様の一時的な酔狂で死なれ、挙げ句に弟子と娘を自分の剣で殺してしまう。それでもなお、主君の名を尊ぶ心理は、先祖や家を考えての耐え難い我慢なのだろう。仮に怒りにまかせて主君に刃向かったとしたならば、自分は当然処刑されるとしても、家は取り潰され、一人残した幼児は転地の上平民か、最悪非人にまで貶められる事になる。それを考えての態度であり、また主君の方もわかってもてあそんでいる。

そして現代、このきちがいじみた封建社会は、特攻隊出撃の際の特攻兵と帝国海軍との関係性、また(当時の)現代社会における会社員と会社との関係性に置き換えて当てはめている。この構図・残酷さは確かに普遍的に通ずる感覚であり、今なお残る日本的価値観・封建社会的家重視の名残なのだろう。

めし ★★★☆☆

主婦として日々炊事・洗濯・掃除とルーティーンをこなす事に疲れたミチヨが、気晴らしに帰郷する話。

タイトル「めし」に込められた意図は、夫が妻に単語で命令する、「(おい)めし!」ではないかと思う。昔ドリフか何かのコントで、「めし!」「風呂!」「寝る!」の3つだけの夫婦生活を描いたものがあったように記憶しているが、本作もその状況における主婦の心と、まるで女中のような窮屈な暮らしぶりを描いている。

そんな日常をぶっこわしたのが、東京から急に家出してきた親戚の娘だった。彼女は典型的クラッシャー、自由奔放な行き方は、今のミチヨにとってその存在そのものが気に触る。夫との関係も微妙にこじれ、ついに彼女は日常からエスケープ、実家でのんびり暮らすことになる。

東京の実情や、昔の友人の苦労を見ることで、あの日常がいかに充実していたかを思い知らされて、またいつもの普通に戻る。ストーリーでは大した展開は起こらないし、まさに平凡・日常を淡々と綴るのに終始する作風は、逆に現代にはない落ち着きがあって興味深かった。