アメリカン・ビューティ ★★★★★

レスターとキャロリンは、夫婦共働きで郊外の一軒家に住み反抗期の娘ジェーンがいるという、普通のアメリカの家庭。自分があって家族があるのだ、家族こそ最高、彼らはこういう現実的幻想の前に自らを塞ぎ込み抗い続けてきた。その結果が家庭崩壊に仕事の不振。そんな彼らにもそれぞれ少しのきっかけが訪れ、そこから自らのビューティーを追求することになる。
この映画では主人公のレスター一家三人と、隣家の住人の大佐とその息子、そしてジェーンの表面的友人アンジェラ、都合6人の関わり合いで物語が動いている。彼らがそれぞれある時点からの人生の美学、私はかくある”べき”、こういう思いを抱くようになってからはおのずと最後の悲劇的な結末は見て取ることができた。
現実にふとした瞬間思いつくような事を、たとえばあの女とやりてぇなぁだけどもそりゃ無理かだって娘の友達なんだぜと、仮に一瞬(この映画で最後に語られる一瞬とは違う、物理的な一瞬)思ってすぐにその思いは消える、その感覚をそれぞれにスーパーデフォルメして喜劇的に表現したのが、そういう物語全体が哀しいけどもおかしかった。こういう類の喜劇を見ると、やはり喜劇は悲劇と表裏だと感じられる。
そしてこの映画があくまで喜劇の体裁を保っていられたのが、話が進むにつれてすんごく重~い感じになっていくのだけれども、まっことくだらぬ事を随所に入れてて、この辺はゲラゲラ笑えるというところだ。朝起きて自慰をしてそこから先は地獄だというのが生身の人間の本音だろう。そう、見てる側がおかしい・笑えるというのはそれが自分の思いだからで、それを解放させるのは笑いの方法としてある。
結局ビューティーってなんだろう。表面的なビューティーなんてのは、この映画で言えば「赤」であり、「アンジェラ」であり、「ファインダー越しに映る物像」である。しかしそうでなくて、一見救いようのないような絶望に収束していったレスターだったが、それは六者六様それぞれの美に向かった結果なのである。特に最後に救われなかったキャロリンと隣家の大佐、彼らはその時幸せだったのだろうか。
またいつか、完全に内容を忘れたころに観ようと思う。そしてその時また自分のビューティー、自分は幸せですかと問うてみたい。
いい映画だと思います。

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