日曜日と香取慎吾と外国人

日曜日。することがない。暇だ。ああ。

そんな時は音楽聴いたり漫画読んだり「ああ暇だ」と一人で呟いたりするわけで、特に見たいものがあるわけでもないのにだらだらとテレビを見たりするわけ。そう、だらだらと。かといって、何故に俺の生活はこんなに充実してないんだ、と今さら嘆いたりするわけでもなし。まあ、こんなもんっしょ。

テレビにおける日曜日の午後~夕方の時間枠なんて、こんなだらだら人間のためにあるようなものだろう。この時間帯で積極的に見たいと思えるテレビ番組など、はっきり言って皆無、皆無、皆無。どうでもいいような芸能人の案内による旅番組なんぞを熱心に見る輩などいるだろうか(いや、いるまい)。せっかくの週末だというのにすることのない人間が、まあ、こんなもんっしょ、とか思いながら見るのである。テレビ側もそれを存分に承知しているから、番組内容は非常にゆるい。そして我々もゆるくて当然というスタンスで視聴するので、文句など出るはずもなく、そうやって世の中は進んでいく。

で一昨日たまたまテレビつけたら「天声慎吾」が。まあ見るでしょ、当然。ゆるい番組だし、こっちもゆるさを求めてたわけだし。だから、見る。何か出演者が外国人を何人笑わすことができるかという、ほかでも何回も見たことがあるような企画をやっており、心が相当ゆるい状態であった私はゲラゲラ笑う。ゲラゲラ笑った所でCMに入り、ゲラゲラ笑ったからもういいや、テレビ消そう、ということで消す。はい、おしまい。

そう、そこではい、おしまい、ゲラゲラ笑えてよかったね、で終わるのが我々視聴者である。出演者やスタッフにしても、日々の仕事をこなしたに過ぎない。だがある人々にとっては、この番組は日常とは程遠い体験になった。それは言うまでもなく、牛乳を口に入れさせられ、目の前で日本の芸能人がわけの分からないことをするのを見るはめになり、平たく言えば全国ネットでさらし者になった外国人たちだ。

この差は一体何なのだろうか。なぜ彼らはさらし者になって、我々はなってないのだろうか。なぜ彼らは香取慎吾やキャイーンを生で見ることができて、我々はブラウン管を通してしか見れないのだろうか。理由は簡単だ。彼ら、外国人、我々(てゆうか少なくとも私)、日本人。外国人である、ということに関しては、我々日本人は彼らの足下にも及ばないのだ。

そんなのずるいじゃないか、彼らは外国人ってだけで、我々より優れてるわけでもない。それなのに何でSMAPの一員が目の前で一所懸命ギャグをしてくれるんだ!などと不平を言っても無駄である。滑稽ですらある。負け犬の遠吠えとはまさしくこのこと、テレビの世界では外国人というのは、それだけで付加価値を有しているのだ。もちろん誰しもがデーブ・スペクターやセイン・カミュの領域に達することができるわけではないが、一昨日「天声慎吾」に出てた外国人たちはその世界の最下層であることは間違いないが(てゆうか素人だろ、というツッコミは無視)、何の付加価値ももたないそこら辺のやつよりはやはり価値があるのだ。

思えば私にも「外国人」という肩書きを欲しいままにしていた時代があった。アメリカに住んでいた頃だ。しかし私はその付加価値を有効利用することは全くしなかった。10年近くアメリカに住んでいたにも関わらず、口の中に牛乳を入れて、生でアメリカの芸人に笑わされてそれを吐き出すというような体験を何一つしなかったのである。外国人なのに、だ。悔しい。ものすごく悔しい。また始めからアメリカ生活をやり直したい、とすら思う。

というわけでみんなも付加価値はあるうちに使おうね。って俺に言われたくないか。

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