Death Or Glory

そろそろ私も日記更新しなきゃな、と思ってたのです。何かネタないかな、と今朝シャワー浴びながら思ってて、で何か適当なネタが思いついて、よし適当なネタが思いついたぞ、それについて適当に書こう、あくまでも適当に書こう、とにかく適当に書こう、何故なら私の日記は(そしておそらくほかの二人の日記も)いつだって適当だから、適当に適当に適当に、となったわけです。ところが今朝出勤してホームページを開いてみたらすでにbitchが本日の日記を書いてるではありませんか。日記を更新すると結果的に前の日記を下げてしまうことになるので、同じ日に日記が二つ更新されるのはあまり好ましくないと常々から思っている私は、当然今日は見送ることにしました。明日があるさ、と。

しかしそんな悠長なことを言ってる場合ではなくなった。ショー・ストラマーが死んだのだ。そう、クラッシュのジョー・ストラマーである。自分が外交官の息子であるということに全くめげずに、”Career Opportunities”や”White Riot”などの曲を歌った、あのジョー・ストラマーである。というわけでbitchよ、すまないが、君の日記を下げさせてもらう。

では私はクラッシュというバンドにどれぐらい思い入れがあるのだろうか。とても。相当。かなり。めちゃくちゃ。死ぬほど。と、まあ、そんな感じの単語を並べてもらえれば。「London Calling」は間違いなく私の生涯トップ10に入るアルバムであり、セックス・ピストルズがどうしても好きになれないのも、クラッシュと比べるとやはり音楽的な幼稚さが目立ってしまうというのが大きな理由だと思う(本当はフェアじゃないんだけどね、そういうのって)。パンクはもちろん、レゲエやダブにも興味を抱いたのも、元はといえば彼らが原因である。

そんなバンドの精神的支柱だったジョー・ストラマーが(音楽的支柱はやはりミックだろう)逝ってしまったのだから、そりゃショックはでかい。ただ泣いたりとか、へこんだりとか、そういうのはない。「そうか、逝ったか」ってのが率直なリアクションである。もちろんショックではあることに変わりはないけど。クラッシュが私が生まれる前にデビューし、鼻ったれのガキの時に解散したというのもあるかもしれないが、超リアルタイムだったニルヴァーナのカートが死んだ時もそんな感じだったと記憶している。

そもそも自分のアイドルが死んだ時に泣き崩れたりする人の神経が分からない。hideや尾崎豊など、「寄るな、とにかく寄るな、何でもいいからあっち行け」と言いたくなってしまうような音楽をつくってた人たちに限った話ではない。カート・コバーンが死んだ時も同様のことが起こったが、ニルヴァーナ好きの私にはそれもやはり理解できない。現に今私の敬愛してるミュージシャン、例えば中川敬や中村達也などが死んでも自分がそのような行動に走るとは思えない。音楽家だけでなく、スポーツ選手や作家、政治家もそうだ。その人たちの作品や功績から我々がどんなに感銘を受けたとしても、本当にその人のことを知ることはできないし、そのような錯覚を抱くのは思い上がりのような気がする。悲しいという気持ちはもちろんあるが、自分の家族や恋人や友人が死んだ時の悲しみとは全く次元が違うだろう(私は実際に大切な人を失った経験はまだないが、それぐらいは容易に想像できる)。言いかえれば、ファンの悲しみなど、実際にその故人に親しかった人のそれに比べれば屁みたいなものであって、度を過ぎた悲しみ方をするのはその人たちに失礼ではないだろうか。

とはいえ、ジョー・ストラマーに関してはその心配はないだろう。カートや尾崎何たらの時とは違って、ファンの多くは分別のあるいい大人であり、醜態をさらすような人がいるとは考えにくい。これが1983年とかだったら話は全く違ってただろうが。おそらくみんな彼の冥福を祈り、自分にとってクラッシュの音楽がどんな意味を持っていたかちょっと考え、酒でも飲みながら「London Calling」をかけたりするのだろう。私も家に着いたらそうしたいと思う。

…と思ったんだけど、あのアルバム1年以上前から誰かに貸してるんだよね。い、い、痛え…。まあ「London Calling」が駄目なら「Sandinista」でいっか。

とにかくストラマーさん、素晴らしい音楽をありがとうございます。ぜひロックンロール天国でジョンやジョージに向かって「Phony Beatlemania has bitten the dust」と歌ってください。

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