ティンカー・ベル ★★★☆☆

物作りの妖精として誕生したティンカー・ベルが、春を呼ぶために色々やる話。

エンディングテーマを湯川潮音が歌っているということで鑑賞。DVDの場合日本語吹き替え音声の、エンドロール2曲目に入っている。このオリジナルの英語verが本編の最後の方、妖精皆でメインランドへ向かう所で聴けるのだが、客観的に見て完全なるBGMと化していたオリジナルと比べると、声の違いが如実すぎた。

基本的に人間の生歌は、上手であったり、下手であったり、立体的であったり、薄っぺらであったり、それら様々な要素の想像しうる範囲での配合、ちょうどマトリックス分布図のようなイメージで捉える事ができる。例えば浜崎あゆみやコウダクミのようなavex系の歌手の声質は大体「ああいう感じ」であるし、少し前のモーニング娘。のようなアイドル系であれば「ああいう感じ」であるし、カートコバーン的なオルタナ系も「ああいう感じ」、ヴィジュアル系や演歌はもちろん「ああいう感じ」、・・・・・・、それぞれにマトリックスで完璧に一致はしないが、近い集団に位置する事が想像できる。

湯川潮音ってのは、その分布図の範囲外にいるような印象がある。彼女は子供の頃ウィーン少年合唱団的なやつに所属していたらしく、それが今のような声質の源泉になっているようだが、そういう出自の歌手があまりいないことから察するに、やはり特殊な存在である。少女時代のシャルロット・チャーチに近いが、シャルロット・チャーチがややクラシックにカスタマイズされている分、湯川の方が無駄を削いでいる印象がある。ファルセットもほとんどの女性歌手と違う。最近カラオケとの相乗効果でやたら高い裏声を用いる歌が多いが、湯川の場合本来の声域の声と裏声の質がかなり近いので、曲全体のトゲが無くなりやわらかく聞こえるようだ。

前述のマトリックス(俺ver)に属さないであろう声の持ち主として、思い出しただけだが「大場久美子」・「小林旭(初期)」がいる。「カヒミ・カリィ」はどうかと考えたが、あれは声質というよりwhisper的な方法の違いだと判断した。分類的には「A Girl Called Eddy」や最近の「相対性理論」に近いかもしれない。また「白木みのる」は特殊だが、体型からして想像の範囲外かというとそうでもない。

でここまでが序論つーか、序論が本論つーか、映画自体はまあなんだ、さもありなん。ティンカー・ベルとピーターパンは名前だけ知っててその物語は全く知らなかったので(つまりピーターパンは今も知らないまま)、その点知ったのは良しとしよう。内容については、日本で言うところの昔話のような教訓が含まれているので、子供に見せたら何らかの作用を及ぼすかもしれないが、こんなもんに作用されるような子供はクソである。

容疑者Xの献身 ★★★★☆

密かに好意を抱いている隣人の女性が衝動的に行ってしまった殺人を偶然に知り、彼女のために偽装工作をする天才数学者・石神の話。

これまで見たミステリー(数は少ない)の中でもロジックの内容はかなり良くできている。こういう系のサスペンスはロジック構築が全てとも言えるほど重要な要素であり、その点テレビの2時間ドラマレベルまでは御都合や飛躍がてんこ盛りで見てられないのだが、流石映画と思えるほどに隙がなかった。今頭で整理しながら書いているが、恐らく石神の作った筋書きに破綻は無いように思われる。・・・たぶん。

アリバイ工作と見せかけての死体すり替えを思いついてからの、ホームレス殺人を決行したのが大本の衝動的殺人の翌日ということは、石神自身が身代わりとして自首するというのも(警察の追求の程度によりけりだろうが)筋書きの範囲内だろうし、だとすると自分が警察に疑われて(学校に聞き込みに来たあたりか)から以降のあからさまなストーカー行為も説明が付くし、湯川が真相を話に来る直前まで、彼女達の身を自分の力によって守れたことと警察をまんまと欺けたということで罪の重大さなど屁でもなく、拘置所で石神は至福の時を過ごしていたことだろう。

犯罪の解決をy・容疑者Xの書いた筋書きをx・警察の捜査をd・とすると、ストーリーはy = dxで表される。この場合の変数はxのみであり、石神のコントロール下にある。xは 0 < x <=1 で、解yに対する定数dに影響を及ぼす。x = 1になった時点で y = d、つまり警察の捜査が犯罪を解決したことになる。石神が書いた筋書きは x = 1に至るまでを描いたものであり、彼の想定では他の変数は無いはずだった。

しかし実際は、天才物理学者湯川の介入(Yはわかりにくいので便宜上aとする)、女の気持ち(w)が想定外の変数として入ることで、式が y = (d + a)x + w となってしまった。変数aは事件の当事者でない以上、独自の変数として成立するほど影響力はなく、これも結局xに依存する。石神にとって一番の想定外はやはりw、最後に自首してきた女の気持ちだろう。それまで一貫してクールを決め込んだ石神が見せた最後の剥き出しの感情は、題字にもある「献身」が報われた感情というよりも、自分が作り上げた傑作の数式が、論理的でない予想外の要因で破綻してしまった事への絶望感に向けられていたように感じられる。

最後に作品としての評価だが、前述の通りミステリーとしてのクオリティは非常に高いのでその点は申し分ない。ただ不思議なもので、それが作品としての面白さに繋がるかというと、どうやらそうではないらしい。これは俺の主観的な問題なので当然映画的には「知らんがな」なのだが、破綻のない論理に面白味は見いだせなかった。全てを見ているからその中では神の如く、全ての状況を把握できる俺にとっては、石神すら想定しえなかった変数wも想定内、最後まで論理的な映画だったのである。登山のシーンだけ非論理的(=無駄)だった。


アメリカン・クライム ☆☆☆☆☆

サーカスの巡業のため、他人に子供を預けた事から始まる虐待事件の話。

本作は1965年の夏-秋にかけて起こった実際の事件を元にした作品である。この時代反ベトナムや公民権闘争によるリベラル思想の反動から、針の逆振れの如くキリスト教的保守主義も一方で強まったわけで、そんな中起きた実娘の妊娠というアクシデントは、冒頭示された敬虔なる南部バプテストの家族にとってとても深刻な事態だったと推察される。そんな中あらゆるストレスのはけ口となってしまったシルビアは運が悪かったとしか言いようがない。

つまり、ガートルードは決して生来の極悪人でもないし、明確な意図や理由があってシルビアを死なせてしまったわけではないことは、本作の展開を見た上でシルビアが息をせず冷たくなってしまった時の反応を見ればよくわかる。こういう場合に「ガートルード及びその子供達もある意味被害者である」と言えるほど俺は人間を信用していないし、結果から逆算すると断罪されるのは当然なのだが、様々な要因が重なって発生してしまった過程を見ると正直なところかわいそうな気もする。これがいわゆる虐待殺人の心理パターンかどうかは、時代や思想の背景があるしそもそも他人の子供に対してのものだからよくわからないが、現代に起こっている老老介護疲れでの殺人や無理心中に近い心理状態にも感じられる。

よってこの事件は以下の要因が重なって起きてしまった事になる。
・ガートルード及びその子供達が強烈に馬鹿であった。
・馬鹿のくせに(馬鹿だからか?)キリスト教には従順であった。
・そういう馬鹿に騙され他人に我が子を預けてしまった。
・シルビア及びジェニーが優しい子であった。
・最後に時代と生活環境。

また子供達には「服従の心理」の典型的なパターンが見られる。ミルグラムやジンバルドの監獄実験も恐らく同時代だったではなかろうか。子供達の行動の責任は唯一の支配者であるガートルードへと環流されるため、理性の歯止めが利かず、また集団で行うことでの同調・範囲の拡大・その場での責任の拡散も生じてしまい、本作のように悲惨な結果につながる。証言台で語ったそれぞれの口が言ったように、行為そのものは母親の指示であり、なぜそうしたか・できたのかは一様にわからないのである。この「わからない」というのがまさにキモ、理由が無いから制限も無いという心理構造は、こういうプリミティブな状況を客観視すると恐ろしさが際立つ。

作品としての評価だが、この見終わった後の胸クソ悪さはどうしても拭いきれない一方で、事件の心理や思考プロセスも理解できるため、例えば単純に「なんでシルビア警察とか児童相談所的なやつに逃げね~んだよ!馬鹿かお前は!自業自得じゃ!」と憤慨することもできず、そういう意味での理不尽さも無いわけで(さらに実話ベースだし)、結果個人的な八つ当たりとしてこの評価にした。作品自体は非常に興味深い内容だった。


パピヨン ★★★★☆

WWII前ぐらい、無実の罪で南米・ギアナの刑務所に入れられた男が、贋札作り名人の男と共謀し脱獄を企てる話。

スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンの二大ビッグスター共演作品。当時的にもその年の目玉作品だったと思われる。見終わった後に確認のため調べたがやはり実話ベースの作品で、それがため見終わった後の感じ方もフィクションとはかなり異なってくる。

「逃亡(≒追跡)」と「無人島」は設定を与えれば勝手に面白くなる素材の顕著なもので、例えば最近大ヒットしたアメリカのドラマ、プリズン・ブレイクやLOSTはまさにそれが当てはまる。24も大きく捉えれば逃亡だ。なぜそれらが勝手に面白くなるのかと言うと、その体験自体が刺激的であるから、特別ドラマを用意しなくても場面持ちするからだろう。要するに、名優に「逃亡」「無人島」をやらせれば、高い水準の面白さは保証されるはずなのである。

その点本作は、逃亡それ自体のハラハラ感よりも、その過程における人との繋がりに光を当てた、アクション性よりヒューマンドラマ的な側面の方が色濃い。結局パピヨンは最初に説明された懲罰の内のギロチン以外、2年と5年の独房生活を過ごしたわけだが、その間にもドガを始め逃亡に関わった数名の受刑者の生活が垣間見れて、さらに実話ということでその奇縁が際立ってくる。ホンジュラスに着いたところで捕まったであろうドガもこれで終わりかと思いきや、最後の収監場所、絶海の孤島でまた二人が再会するというのは、実話であるから面白い。

映画的な一番の見所は、パピヨンの最初の独房生活ではなかろうか。独房に入ったばかりの元気な頃、隣の収監者に「顔色は悪くないか?」と聞かれたシーンがそのまま、彼自身の問題として後に再現されるシーンは技巧的であるし、その後も厳然と黙秘を続けるパピヨンの姿、根性は計り知れない。あの悲惨な描写があったからこそ、映画時間では一瞬でしかなかった次の5年の独房生活が、とてもショッキングに感じられる。実際の年月をそのように過ごした気持ちというのは到底理解できないが、あの独房シーンがあったからこそ、ラストの執念とも思える脱獄に懸ける意志の強さに結びついてくる。

およそ百年前まで、こうした非人間的労働者がいた上で本土の豊かな生活が成立していたというのは凄い歴史だ。今でも昔の植民地は経済の遅れでその名残をみられるし、形を変えた奴隷労働は世界中にまかり通っている。でも、それが世界の常識であった時代が意外と最近まで続いていたというのは、こういう映像を見ると改めて感じさせられた。

ゆきゆきて、神軍 ★★★★★

WWIIニューギニアの生き残り、昭和天皇・裕仁に戦争責任を強く感じている漢、奥崎謙三が、戦後まもなく起きた日本軍内における処刑事件を追及していく話。

一言で言えばガチである。この漢は生き方がガチ過ぎる。それ故様々な人に迷惑をかけ、手間をかけさせ、時には平和をぶち壊すクラッシャーであるのだが、そういう事情を勘案しても尚行動してしまう、せざるを得ないガチさをこの男の態度から感じ取れた。醒めた現代、この煮えたぎる怒り・熱さはその点だけでも一見の価値がある。

このドキュメンタリーで彼の本性は全く描かれてはいない。ある一面におけるガチさを映像に収めようという制作意図、そして奥崎本人も実は常にカメラや出来上がった作品を見る観客がいるのだという客観的な視点を持っているという事から考えても、変な話本作はエンターテイナー奥崎の一面を描いたのみで、時折見せる「普通の人の表情」から見て取れる彼の全体像は見えてこない。クライマックスと言ってもいい、山田から真実を引き出す奥崎のやり口はえげつないほど場慣れしており、恫喝に慣れっこである彼という存在が本当に恐ろしかった。時間的な都合もあったかもしれないが、過激な行動をメインに描く反面、例えば普段の食事や風呂・よく見るテレビ番組や本棚、冒頭登場した犬との関わり方など、少しでも素が見て取れるシーンも見てみたかった。

そういう印象もあってか、俺自身見ていくうちにどうも奥崎本人より妻・シズミの方に興味が移っていった。経営する自動車整備会社?のシャッターに「田中角栄をぶっ殺す」的な事を書かれ、マイカーはこれまた田中角栄誅殺仕様のセダンとバン、こんなガチな漢の妻が、よりによってシズミのような、誰にも好かれる肝っ玉母ちゃん的な人物というのは一体どいういうことなんだろうか。結局本作ではシズミは奥崎に心酔している従順なイエス・ウーマンとして登場するのみで、何が彼女をそうさせるのか、奥崎を許容させるのかはわからなかった。奥崎の収監中に68歳で死んでしまったシズミ、奥崎とシズミが結婚しその後の夫婦生活で何があったか知らないが、ある意味における肝っ玉母ちゃんである。

本作はWWIIで死線をくぐり生き延びた奥崎が、ある下級兵の「戦後の戦病死」という不可解な事実に対して、真実を追究する過程を収めたドキュメンタリー作品である。結論としては、戦後ニューギニアに残された残存部隊は、食べ物に窮したため人肉を食しており、原住民(土人=※現代では禁忌語)・アメリカ黒人(くろんぼ=※現代では禁忌語)・アメリカ白人(しろんぼ=※現代では禁忌語)の人肉が尽きると、日本軍の中で階級が下で役に立たないものから順番に殺して生き延びたのである。正直な感想で言うと、この衝撃的な事実に対して俺自身は衝撃を持ち得なかった。人肉食い、これが絵空事に感じてしまう、全く持ってリアルさがない事について、果たして俺は言及して良いのかどうかわからんし、例えば阪神大震災を経験したものでなければ都市型大地震の恐怖感は分からないような、雲を掴むような印象でしかないため、これは「こういう事実があったし、その事自体は衝撃的である」という感想に留めるしかない。

その追究過程で彼が一般的な感覚と大きく異なるのは法律に対する捉え方だ。撮影中何度も、彼が人をぶん殴ったり監禁状態に置いたりといった違法行為で警察沙汰になるのだが、彼はその都度自ら警察を呼んで判断を仰ぐのである。「必要であれば暴力を行使することを厭わないし、現に結果に結びつく」と断言する姿勢はやはりガチであるし、何の偶然か昨日見た「ダークナイト」のバットマンと一致する信念である。ただ一つ違う点、バットマンにとって悪である事は法律と概ね一致するが、奥崎の場合そうではないという事だ。

これをきちがい(※現代では禁忌語)、つまり他者とは気が違うため自分の価値観のみを信ずるガチな漢の生き様だと見て取るのは易い。しかし、一瞬だけ見えた(恐らく自費出版本の値段であろう)看板に書かれた\900という値段設定、そしてシズミの存在が、どうしても俺にはそう思わせてくれない最後の砦として立ちはだかっている。もしかすると(恐らくいくつか存在するであろう)奥崎関連の本や資料を見ると判断できるかもしれないが、本作でそれは難しかった。彼を変えてしまったトリガーはWWIIでの経験だろう。昭和天皇を殺すと罵り、パチンコを撃って逮捕された事を誇らしげに語る奥崎もまた戦争被害者であるし、その奥崎をきちがいと言えるような体験を俺はしていないししたくない。

ダークナイト ★★★☆☆

バットマンが悪人を懲らしめているゴッサムシティに、ジョーカーという悪がやってくる話。

「バットマン」は当然知っているが、存在を知っているのみで、原作コミックスやこれまで作られた実写映画作品も一つも見たことはない。「ああいう風体のヒーローコミックがある」という事前情報のみで、ゴッサムシティ含めたバックボーンは一切知らない上での感想となる。

まず特徴的だったのは、これはバットマンをある程度知っている人にとっては常識なのかもしれないが、「彼はみんなが憧れる正義のヒーローではない」し「絶対死なない超人でもない」という点だ。バットマンは超金持ちの青年が自らの正義感を発散させるために人材と資金を投入して作られた普通の人間を強化するプロテクトスーツのようなものであり、彼の行為は悪人を法ではなく暴力で制圧するため法の下では違法になる。従って警察やマスコミも諸手をあげて活躍を熱望しているわけではなく、どちらかといえば「彼がいるから犯罪者が増えるのではないか」という疑念すら抱かれるほど厄介者扱いらしい。その中で、恋愛感情のある女と警察の現場責任者的な人がバットマンを全面的に支持しており、二人はバットマンと素のブルースとが同一人物であることを知っているらしい。

そういう背景があって、本作は常に人間の心に芽生える正義と悪の移り変わりを大きなテーマとして描いており、その悪の象徴としてジョーカー、(法律的ではない)正義の象徴としてバットマンを配置している。この二者だけはそれぞれ悪と正義がぶれることなく、その純粋さにおいて共通しており、彼らもまた互いの心根を理解している。アクション的な対決の肝はこの二人だが、映画的な仕掛けをもたらすのはどこぞから悪を壊滅させるためにやって来た検察官・ハービーだろう。

彼は当初みんなのヒーローであり、正義の象徴であり、バットマンの事も理解し協力し互いに正義を実行していた。一方は暴力・一方は法によってである。その彼がある裏切りから正義への不信感を抱き、ついには人智を超えた境地、「運」にたどり着く。正義も悪も、人の感情が介入している限り、対象に純粋さを持っていようとも真に純粋と言えるだろうか。「運」は例えるなら真空であり、そこに人間の感情の介入する余地は無いのである。表か裏か、彼が「運」によって恋人を殺されてしまったように、その死に関わったほぼ全ての人に対して「運」を適用するのは凄く理にかなっているし、その点主人公であるバットマンや、わかりやすいピカロであるジョーカーよりも、ハービーの心の変化が面白かった。

最後バットマンは、法の下では悪になってしまうハービーを、民衆のヒーローとしてシンボル化するために、ここは一丁俺様が彼の罪を被ってやるよ!実際は正義だけどね!つってヒーローヅラこいていたが、いや待てと、お前ヒーローと素で顔を全く使い分けてるじゃねーかよと、顔を使い分けるんだから大したストレスにならんだろうと、彼の言う正義に欺瞞を感じるラストだった。


ワールド・トレード・センター ☆☆☆☆☆

9.11で救助活動中WTCの崩落にあい、生き埋めにされたNYPDの警察官二人とその家族の話。
見終わった率直な感想は「この映画は誰に対してどういう意図で制作されているのか」という強い疑問だ。9.11は地震や津波などの偶発的な災害ではなく明確な政治的背景を孕んでいるというのに、映画の本筋が「生き埋めにされた人の救助で感動的に仕上げる」つーのはどういうつもりなんだろうか。最後にテロップで明示されるが、死者は約2,800人、そして被災者の中で生存した者はわずかに20人、この状況で「20人の人が生き残った」という方に目を向けるような性質の事件ではないというのは、その後のアフガニスタン~イラクへの泥沼ぶりを見れば明らかなはずなんだが。
家族にしても、自分の夫が生きてるか死んでいるかすらわからない、雰囲気的には死んでいる可能性が高いという絶望的な状況、そんななかで「生きている」とわかったときに大喜びする気持ちはすごくわかるし、仮に自分が同じ立場ならばもうそりゃもう、今まで生きた中で一番嬉しいぐらいの大喜びになるだろう。「てめーさえよけりゃいいのか」その通り。当事者であれば、100%てめーさえよければいい。これは間違いないし、そこは理解できるんだよな。個人の感情の問題として。
で、それを不特定多数の人間が見ることを前提とした映画で描くって、どういう根性してんだこの制作陣は。前述の通り、ざっと生存者の140倍、この事件で図らずも死んでしまった人がいるというのに、そっちの感情を封殺し生きてる方で感動を醸し出そうとしたって、そりゃ無理な話だ。どうしたって亡くなった方の感情を慮るし、その点でも9.11は特別な出来事だ。
奇跡の救出劇ならこれでもいい。ただ「ワールド・トレード・センター」と称する以上、なんらかの主張はするべきなんだよな。映画でやるならば。救出ドキュメンタリーじゃないんだから。ドキュメンタリーだったら、当日たまたま消防署の一日を取材に来ていたフランスか何かのテレビクルーによるもの凄いリアル映像もあるしね。その点前に見たヴィム・ヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」は、9.11に対する作家の主張があったし、そこで自分も考えるものがあった。これは酷すぎるよ。

父親たちの星条旗 ★★★☆☆

1945年2月、硫黄島の戦いですり鉢山の頂上にアメリカ国旗を掲揚した兵士達の話。
上映時期は前後するが、前に見た「硫黄島からの手紙」が、日本側から見た硫黄島の戦いそのものをテーマとした、いわば戦争アクション映画だったのにたいして、こちらは硫黄島の戦い後、戦果を象徴するヒーローに奉られた兵士たちの、世論や時代に翻弄される様を描いたヒューマンドラマ映画として構成されている。そりゃあもちろんアメリカ軍の戦い方としては、1年前のノルマンディー上陸とほとんど変わらないような「力押し」、確実に総員の何割かは死ぬが確実に勝利を得られる物量作戦を選択していたので、戦争行為自体に特別際立った特徴はなかったのだろう。戦争の勝利というのが、最終的に地上部隊が進入してその地域を制圧して初めて達成されるという事は今も昔も変わらないのだが、昔の場合そのやり方があまりに残酷すぎる。
また興味深かったのは、本作では戦争とは全く関係のない形で死亡した兵士達についても描かれてあるということだ。戦争での兵士の被害の内極微少ではあるが、例えば不注意だったり、なんかのはずみで手榴弾のピンが抜けて近くにいた4~5人もろとも死んでしまったり、本作にあったようにドジな奴が海に落ちてそのまま救助しなかったり、というような本当にその戦争において全く、これっぽっちも意味のない死亡事例もあったんだろう。本人の名誉のために、それらは等しく「名誉の戦死」として伝えられたんだろうが、こういうのは見ていて戦闘での被弾による死よりもせづなさがハンパじゃない。なんなんだろうなああの人たちは。
ヒーローがプロパガンダに利用され翻弄されて自分を喪失するというプロットはたまに見るヒューマンドラマの体だ。ただし本作はそれが実話、しかも太平洋戦争末期の国債購入を呼びかけるキャンペーンの犠牲になったという、おまえそれ戦後の共産主義者との戦いを見据えた資金集めをその時点でやっとったのかという感情も相交じってしまった。日本の惨状に比べたら屁でもない悩み事だが、本人達にしてみるととても重要な事なんだろう。いや、見る順番間違えたな。「硫黄島からの手紙」のインパクトが強くて、それありきだとこっちは薄いわ。

ユナイテッド93 ★★★☆☆

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件でハイジャックされ、唯一目標物に激突しなかった飛行機の乗客・テロリストと、アメリカ空軍・連邦航空局(FAA)の話。
2001年9月11日(日本時間)午後10時頃、俺は実家の居間で家族と10時のニュースを見ていた。その当時10時のニュースと言えば「ニュースステーション(Nステ)」が一番人気で、実家でも通常はNステを見ていたはずなんだが、その日はどういうわけかNHKのニュース10を見ていた。で、今調べるとその日日本には大型の台風が接近しており、こういう自然災害系や選挙系のニュースのフォロー具合ではNHKに勝るものはないので意図的にNHKを見ていたのだろう。
そして突然、炎上するWTCが画面に映し出されたのである。刻々と被害が広がり、リアルタイムで見る飛行機の激突、姉か母が確か「こいは戦争たい(方言)」と言った気がする、そして最も鮮明に記憶にあるのが、激突でもWTC崩落でもなく、NHKアナウンサー堀尾が言った「これは映画ではありません。現実の映像です。」という一言だった。その後は夜明け頃まで各局をザッピングしていた記憶がある。今振り返ると、比較的映像録画が好きな俺がなぜこの事件の映像を録画しなかったのだろうか。それぐらい、衝撃がすごかったのかもしれない。以上俺9・11。
でこの9・11事件でハイジャックされた4つの飛行機のうち、2機がWTCの北棟と南棟へそれぞれ激突、1機がペンタゴンに激突、1機は地面に激突。ユナイテッド航空93便は地面に激突した飛行機で、唯一テロを遂行できなかった飛行機だとされている。本作では事件当時の朝の風景からリアルタイムで進行し、「いかにしてテロを遂行できなかったのか」という飛行機内部の描写と、突如発生した大規模なテロ攻撃に対し、政府・軍・管制塔・航空管理がどのように対処したのかを描くという、二つのシチュエーションから9・11を取り扱っている。
まずこういう映画を作る前に、(アメリカという事を勘案しても)ほぼすべての遺族や政府関係者などから映像制作に対しての同意は得たはずだろう。死者だけでも確か約3,000人、他にも現場にいて巻き込まれた人などその対象はものすごい数だったはず。その労力をもってしても尚作り上げた根性は凄い。だってこれ、日本に例えるならばオウム真理教の地下鉄サリン事件のもっとすげえやつだからなあ。サリン事件でさえ、テレビドラマで再現するのに10年かかった。この点は本当に凄い。
ただそこから先があまり無いんだよな。当然ちゃあ当然なんだが。こういう作品に映像作家の過度な主義主張は入れてはならない(この場合絶対に入れてはならない)し、しかもユナイテッド93の乗員乗客は全て死亡しているわけで、当時いかにテロを防いだかを詳細に描く場合、まず客室乗務員が普段どういうマニュアルで行動しているかという事から逆算し、さらに機内からの電話音声を分析して状況を把握するしかなく、そこはどうあがいても想像の域を出ないから、生々しい描写とはいかない。
また非常に薄くではあるが、テロに対処した政府と軍とFAA、それに現場でまさに運行スケジュールを管理している管制塔とのやりとりの不具合を描き、「もっと連携が取れていれば被害は小さくなったかもしれない」という意図が盛り込まれているように感じられたが、やっぱそれは無理な話だ。テロリストはモハメド・アタを筆頭にガッチガチのイスラム過激脳を持っており、そいつらが過去2年ぐらいで飛行機の操縦技術を習得し、ほぼ同時にテロ攻撃を実現したのだから。ここまで(テロ実行側にとって)成功するというのはよほど綿密な計画がないと無理だし、それを後手後手で処理しようとするのは厳しいだろう。
だから結局、映画としては当時の混乱ぶりと機内の状況を交互に描くしかなく、そこには映画である理由は特にない。これはテーマの限界である。
ちなみに、ユナイテッド93テログループでリーダー的存在だったメガネの男、結果からさかのぼると結局出発時間の遅れと彼が実行を躊躇し目標までの到達時間が長引いてしまったことがテロ未遂行につながったと思うが、彼は確かドイツ・ハンブルグに彼女がいて、テロ計画が立案された当時ほどガッチガチのイスラム過激脳ではなく、どこか自分の死(=現世での彼女との別れ)に対して躊躇・未練があったらしい。結構前ディスカバリーchで見た気がする。これは映画で確か触れてなかったので一応書いておこう。

硫黄島からの手紙 ★★★★☆

1945年2月、大日本帝国軍 vs アメリカ軍の戦争の話。
硫黄島の戦いを題材とした「父親たちの星条旗」と対をなす作品。本作では大日本帝国陸軍の視点からストーリーを構成しており、元パン屋で赤紙招集により激戦地に派遣された、やや戦争行為自体に懐疑的な一兵卒・西郷と、硫黄島の戦いの指揮官・栗林中将、この二者を主役として描いている。
1941年12月8日に開戦した太平洋戦争で、1944年6月までに日本軍はマリアナ諸島を全てアメリカ軍に占領されており、この段階で東南アジアからの天然資源の補給路を寸断され、B-29による爆撃範囲は東京・名古屋・神戸まで含まれるほどで、戦争の勝敗だけ見ればこの時点で決まっていた。つまり大戦末期の戦闘というのはいわば「いかにして負けるか」、その負けっぷりの奮闘により、アメリカから最大限の譲歩(≒大戦終結まで天皇制維持は断固として譲らなかった)を引き出すという、「負けて勝つ」の戦いだったのである。硫黄島の戦いは日本軍にとってそういう戦いであったと同時に、アメリカ軍にとっては日本本土爆撃をさらに進めるための拠点奪取の戦いでもあった。
史実映画というのは、ストーリー的な起伏よりも、その史実をいかに忠実に、しかも映画のある程度決まった尺の中で描いているかの方が重要だ。その点、硫黄島の防衛陣地構築風景から始まり、栗林中将の長期作戦、実際の戦争の経過もきちんと描いていて、こうして作られた実写を見るとアメリカ軍の物量作戦の強烈さ、また日本軍の(残念ながら)負け戦っぷりが非常によく分かる。そうすると自然な感情として「こんな事はやりたくねえな」と思うはずだ。これが戦争映画の存在意義であり、皮肉にも出来が良ければ良いほどその思いは一層強まる。
さらに史実についての理解も深まる。俺自身、栗林中将が米国に滞在していたという事や乗馬の金メダリストがいた事は全く知らなかったし、当たり前の話かもしれないが「硫黄島の防衛戦は手作業で掘ったんだ」と再認識したし、「上陸に際しては敵を十分引きつけた後、『メディックを狙っていけ』」という細かい作戦も知らないことだった。
地上戦の描写についてはハリウッド大作のなせるスケールというか、例えばこれ日本資本で制作されていたとするとほぼCGでやっつけたような地対空戦や戦車を交えた塹壕戦を、ドッカンドッカンの派手派手に作り込み、冒頭30分の静寂の中での防衛戦構築と対比する形でその衝撃はでかかった。「あーあんなスピードでプロペラ機飛んできて、地対空兵器があんな機関銃だけじゃあ、それじゃあまあやりたい放題だよなあ」と実写で見て分かるのは素晴らしい。艦砲射撃に耐える地下壕での兵士や、硫黄島の戦いでの最強兵器・火炎放射器での丸焼き、集団自決、アメリカによる捕虜の虐殺もきっちり描いていた。
ただいくつか気になる点もある。まず歴史を知らない人からすると、時間の流れが全くわからないと思う。あれでは穴掘りからアメリカ軍上陸まで一気に起きた出来事のようだ。またあの、西郷を日本刀で斬ろうとした中隊長のポジショニングがなんかわからん。たまーに出てきては「あー戦車が俺の地雷を踏んでくれなくてむかつくぜー」的な事を言い、そんならおまえ、爆弾抱えて戦車に突撃しろよと思ってしまう。別にいなくても問題はない。栗林中将を演じたハリウッドでたぶん一番有名な日本人、ケン・ワタナベも実際問題、あんま演技がうまいとは思えなかった。実戦になって全員がハイテンションになり、ある程度ごまかしが利くまでの冒頭30分や、途中に挟まれるアメリカ滞在中のモノローグなんか正直、日本のテレビドラマ級の演技だ。西郷の現代的な言葉使いもすげえ気になる。このへんは、アメリカ制作ということで仕方がない部分かもしれない。
当時の軍国主義meets天皇陛下万歳思想が軍にも一般にも浸透している中、バンザイ突撃することや「生きて虜囚の辱めを受けず」と潔く自決する事というのは正しい行為で、むしろ西郷のように「自分が生きること」を優先することは間違っていた。ただそれを現代の日本人が映画で見る場合、ほとんどは西郷の考え方を正しいと思うことだろう。
2時間弱という尺の問題から、当然描いていない描写もいっぱいある。日米双方共に約2万人ずつの死傷者を出したが、その惨状というのはこの映画からは見て取れない。硫黄島の戦いを理解するならば、本やドキュメンタリーを見た方がいい。ただ総じて見ると、戦いをニュートラルな目線で網羅的に描き、当時の日本軍がいかに負け戦で負けていったかを、活字ではなくインタビューでもドキュメンタリーでもなく、戦闘を実写で見ることのインパクトは相当なもんがあった。次回アメリカ視点で描かれたという「父親たちの星条旗」を見てみる。