ダイヤルMを廻せ! ★★★★★

資産家である妻が、彼女の友人である作家に心ひかれてゆく。自分の身を案じた夫は、妻の財産を狙った完全犯罪を計画し、旧来の友人にその実行を依頼する。ところが夫の友人は、逆に妻に抵抗され挙げ句に死んでしまう。そこで夫は妻に殺人の罪を被せようと画策するのだが・・・。
さすがに巨匠と言われるだけあって、ヒッチコックの作品はどれも面白い。まず驚異的なのはこれが1955年製作であること。なんとカラー!55年というと、日本では後の世界のクロサワが白黒フィルムで「い~の~ちぃ~み~じ~いぃ~かぁ~しぃ~~」なんてやってるちょっと後。それでこの映像クオリティなんだから、当時のハリウッドはかなり飛び抜けてたんだろう。
サスペンス映画よろしく、結局はミスが命取りとなって夫は捕まるのだが、そのミスが「必然のミス」とも言えるもので、つまりこの映画の伏線の張り方、クライマックスの持っていき方などは、後々の映画に大きく影響したことだろう。今見ても全然色あせていないことからわかる。
最近よくあるサイコサスペンス、「超」のものをもちこんで何でもアリにしてしまってパワープレイで成立させてしまうような作品は、サスペンスである以上やはり無理があり緊張感は持続しないし、ヘタしたら退屈なだけになる。それよりサスペンスならこういう古典的な推理ものが王道だし見応えある。

12人のやさしい日本人 ★★★★★

ある女が、離婚した夫を殺した容疑で裁判にかけられた。最終的な判断を委ねられたのは12人の陪審員。一般人である彼らは所詮他人事、全員「有罪」で一致するかと思われた時に、本当に有罪で一致した・・・。その時一人の若者が切り出した。「私は議論がしたいんです。」そのあとどうなる?
大元は前に書いた「12人の怒れる男」という映画で、原作というかもともとは三谷幸喜の劇団劇だったらしいが、これは舞台でも大爆笑だっただろう。なにより設定が舞台向きだ。場面転換はほとんどなくそのぶん舞台のスピード感も増すだろうし、一気にいける。
まず最初の全員有罪がいい。日本人っぽい責任放棄。この辺でなんとなく、ただのパロディでなく日本人を全面に出そうというのが見て取れる。12人はそれぞれに付和雷同、グレーゾーン、弱いものには強い、みんな日本人に「ありそうな」側面を持ってる。
なので、発言するにしても「あなたはどう思いますか?」と聞かれてから「はあ・・・。」こういうのが多い。「怒れる・・・」のパロディだけでなく、これは日本人のパロディなんである。
まあ全体の感想はこんな感じで、肝心の中身はそのクライマックスがとてつもなく凄い。さすが三谷幸喜。「まさかあの言葉が・・・そうなる・・・かぁ~!」。とにかく初見は度肝抜かれる。絶対見るべし。

12人の怒れる男 ★★★★★

ある少年が自分の父親を殺した容疑で、裁判にかけられた。最終的な判断を委ねられたのは12人の陪審員。一般人である彼らは所詮他人事、全員「有罪」で一致するかと思われた時に、一人が「無罪」に。そのあとどうなる?
曖昧な記憶であるが、現在陪審制を採用している国はたぶんない。かつて採用されてた国はあったが、この映画の冒頭のように所詮は他人事、陪審員も各自の正義感よりも日々の暮らしが優先されてしまったようだ。
だからといってこの映画がそう簡単に終わってしまっては元も子もない。やっぱいるんです反乱分子が。結局彼がきっかけとなって物語は様々の事が語られ、明らかになり、終息していくのだが、かわいそうなのは最後まで「有罪」と言い続けたオヤジ。なぜそこまで固執したのか、真相は物語の最後に語られるのだがあまり理解できん。オーバーラップするかぁ?他人様の事が?
しかし、その後日本でパロディが作り出され、またこの「12人が一つの部屋で話すだけ」というような密室のシチュエーション、緊迫感は全然古くささを感じさせない。つまり名作。
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12人のやさしい日本人

七人の侍 ★★★★★

江戸時代になると、戦国時代の残りカスである野武士が横行し、各地の農村は被害を被っていた。それを恐れたある村が、一人の武士に用心棒となることを依頼する。依頼された武士は仲間を募って、六人+一人の用心棒軍団ができあがった!
世界のクロサワ渾身の一作。当時としては考えられなかったであろう3時間近くに及ぶ物語は、なんとレンタルビデオで2巻セット、同時代でこんなのは同じくクロサワの「白痴」あるいは「風と共に去りぬ」ぐらいしかすぐには思いつかん。それぐらい「渾身」なんである。
話としては単純明快。野武士がウワーっと攻めてくるのを、用心棒と百姓がウワーっとブッ倒す、それだけ。しかしそこにはクロサワ映画の特徴でもある、人物を切り取ることがある。
日本独特の機微、例えば「百姓」には「farmer」にはない感傷的な響きがあるし、「武士」「野武士」なんて、およそ「soldier」にはないなんちゅうか、背ってるもんが違うぜ的響きがある。少なくとも俺はそう感じる。
そういう感覚的なものを白黒映画の時代から取り入れてきたのがクロサワ。だから世界。世界は普遍。故に面白い。こういうことになる。
3時間は間延びしないし単純におもしろい。あとやっぱ菊千代かな?

いきる ★★★★★

市民課課長、渡辺(志村喬)は時間を”埋め”ていた。彼にとっての日々は、ただ過ぎてゆくのみである。そんな彼に衝撃的な出来事が起こり、それがきっかけとなって今までの人生の無意味さ、またこれからの生き方を模索し始める。今見ても何ら遜色ない黒澤作品の凄さは、人間の永遠普遍のテーマを正面から取り組むことにある。
いのちみじかし こいせよおとめ
人間にとっていきるとは何だろう。自己実現、成り上がり、歴史に名を残す、単なる時間潰し、諸説あるがこの映画のテーマのように、生きている時は”いきる”実はまあ、ない。残念ながら日々の雑然とした生活・憂い・享楽など数多のものに、その人間の本源的な問いは封殺されてしまうのである。特に安定的な社会では。
若ければ若いほど、生に対して真剣になりきれない、つまり死に対しても真剣になりきれない。若ければ本質的に死なない”だろう”と思っている。現に渡辺が”いきる”事を模索しだしたのも、直接的な死が真剣の舞台に登ってきたからである。結局我々が”いきた”心地を感じるのは、その日その日を真剣に生きる、とてつもなく難しいことだがこれしかないだろう。
映画ではこれらのテーマを蕩々と語る。”いきる”事のわからない渡辺は、とりあえずの快楽に走るふりをするが、生来の性分がそれを受けつけない。彼がたどり着いたのは「活きる」事、自分の範囲内でもがいてみせる事である。
しかしこれで話は終わらない。このような「活きる」姿勢を目の当たりにした市役所の職員、彼らもまた渡辺に習おうと決めたものの、できない。それもまた人間。生に対して真剣であることは相当のパワーと意志が必要なのである。

たどんとちくわ ★★★★★

自分の思い通りにいかなすぎる世の中に、腹の中で不満が鬱積しているつかえないタクシードライバーと売れない小説家。日常のほんの些細な事がきっかけとなって、ついに不満が外に向かってしまう。その爆発の方法があまりにも身勝手で、これこそシュールな笑いといえるのでは。
まずはたどんの方。たどんとは炭団、燃料の類らしい。本編には全く関係ない。ただ「たどんって何だ」って思ったからなので。
タクシードライバーというものは基本的に愛想が悪い。そんなにタクシーに乗る機会はないが、いままで乗った印象で悪いと思うのである。チャリ乗っててイチャモンつけてくるのは圧倒的にタクシードライバーが多い。最近はMKタクシーみたいなのもあるらしいけど。
だから客が乗り終わった後で一人、乗り終えた客の文句を垂れ流す、これは考えられることだ。結構そう思う。しかしそのタクシードライバー的「礼儀」、それを突き詰めると本作のように客の前で悪態ついたり、場合によっちゃ拳銃で脅す、これは健全な礼儀の突き詰め方なのである。いや、殊笑いとすれば。だから面白い。
つぎにちくわ。売れない作家という設定はよくあるが、往々にして彼らが世間に”復讐”する、このワタクシの才能を認めない、いや蔑みさえしてくるような感覚を覚えるとき、その反抗のやり方はショボいものなのである。それこそ売れない作家たる所以だ。
初っぱなからそれを壊す。おでん屋にケチを付け、おでんに小便をぶっかける。自分以外の(表面上)楽しそうなバカどもに斬りつけ、異星人の血の雨を降らせる。彼にはそこら辺の凡人どもは異星人に見えるらしい。
たどんも、ちくわも、絶対現実に起こり得ないことではあるが、なんか起こりそうである、いや頭の中では既に色々な人のなかで起こっている事なんである。それを実行に移した両者、それゆえにシュール、腹からわき上がる笑いではないかと思う。

ALIVE(生きてこそ) ★★★★★

アメリカのある大学のラグビー部が、セスナで移動中吹雪に遭い機体は地面に激突!真っ二つになる。下界との交信手段はない。こういう状況でどういう風に人間が行動したのか、ノンフィクションというから凄い。
雪山遭難という絶望的な状況で、よくも12人だか生き残ったことにまず敬服する。
この映画のテーマは「生きる」という大テーマと、もうひとつに「カニバリズム」というテーマがある。自分は宗教、哲学、またそれが殊人肉主義となるとほとんど知らないのだが、こういうことはこの映画のような極限状態に追いつめられないと凡人には考えも及ばないようなことなので、もっともではある。
何処だかの原住民に、死者の肉を食ってその魂を食った者に宿すといった風習があるらしいが、これは宗教でも人間倫理の問題ではなく、あくまで「習慣」の話だ。いわば我々日本人が鯨を食うようなものだ。
遭難者は、不可知論者と言っていた奴を除いてはすべてキリスト教者だった。そういった確たる信念が在るような人が、その信教に抵触するような行為を犯すのはどういった心境なんだろう?自分は無信教であるから宗教上の呵責といったものは起こらない。だからよくわからん。
しかし彼らは人肉を食った。物語の冒頭で生還者の一人が事故から10数年後に振り返るところで、「あの状況にならないと、自分がどう行動するかなんて誰にもわからない。」と言っていたが、ほんとそうだろう。キリスト教者でさえ人肉食ったんだから、もうなにが起こるかもわからないし、自分がどう行動するかも及び知れない。ただ一つだけ言えるのは、恐らく「生」に向かって行動するだろうということ。
その結果彼らは全員じゃないにしても、とにかく生き残った。ラストで緑ある山々を見た時、またヘリコプターの音を聞いた時、まさに「生きてこそ」なんぼじゃ、と感じたんじゃなかろうか。

地獄の黙示録 ★★★★★

ベトナム戦争中にアメリカ軍の敏腕大佐が消息を絶った。それを受けて探しに行くよう命ぜられる中尉。探しに行く過程で、そして大佐が見つかってから、中尉はどうなっていくんだろうか・・・?
大佐が中尉に理解して欲しかった事は何か。それは狂気と恐怖は紙一重だということだと思う。
 
大佐自身、ベトコンが狂気を狂気と認識しないところに魅せられ、そして自分もまた一時的に狂気に陥る。しかし一方で彼は自分が狂気であることを次第に恐怖し、また狂気であったと喧伝されることにも恐怖している。彼はベトコンのシンボルとなったため、恐怖を友にして表面的に狂気でありながらその事実に苦しんでいた。
 
そこで中尉に自分を解放して欲しかった。それは中尉が捕えられてから、生首や吊した死体、またシェフの生首を中尉の所にもってくるなど、狂気のポーズを見せておきながら、息子のことを気にかけたり、最後に「爆撃で殲滅せよ」という言葉を残したりと、それとなく中尉に示唆しているシーンから見える。
 
一方中尉は大佐の考えを理解し、大佐を殺した後、恐怖を友にしてベトコンをひれ伏させた。カメラマンの言葉「彼(大佐)が死んだら人々はなんと言うだろう。彼は優しく賢明だった。創造力に富んでいた。彼の真価を伝えられるのは俺じゃない。お前(中尉)だ。」カメラマンもやはり、大佐のジレンマを感じていたのである。
 
この映画は、戦争の恐怖の面を一貫して描いている。殺人の倫理は戦争映画で明示的に現れやすいが、生死の極限状態では、一見狂気で殺すように見えるが、その根底には恐怖があるのだろう。
 
恐怖を友にすることと狂気であることは異なる。大佐と中尉は前者。ベトコンは後者。ベトコンが二人にひれ伏したことで表面的には違いはわからないのだが、狂気は殺しを裁かないが、恐怖は殺しを裁こうとする。大佐が狂気に惹かれたのはここかもしれない。しかしやはり狂気にはなれなかった。狂気と恐怖、紙一重で大佐は恐怖に駆られたというところか。
ラストで大佐を殺すシーンと、狂気の祭の中でベトコンが牛を殺すシーン。また大佐がポーズとしての狂気の会話をテープに吹き込んでいるシーンは象徴的だった。

パルプ・フィクション

ヴィンセントとジュイスは、マセールスをボスとするギャングの一員。マセールスから命じられ、あるスーツケースを取りに行くのだが、その間に起こる、またその後に起こるギャングの非日常風景を、時間軸をずらすことで、短編映画のおもしろさと同時に、各シリーズの顛末を強烈に印象付け、結局はすべてが一つに繋がる手法はこの映画ならでは。
クエンティン・タランティーノ監督作品第二弾。まず感じるのはその圧倒的スピード感。これは「鮫肌男と桃尻女」にも通じる、映画全体を通じてのスピード感だ(どっちがどっちに影響したかと言えば、まあ作られた年から考えるとパルプが先)。結末を早く知りたいというものでなく、映画の展開が絶妙でそれに酔ってしまってあっという間に終わってしまう。150分が短く感じるんだから凄い。
印象的なのは、殺しのやり方が色々あってその間をどうしようもない理屈と「ファック」の連呼で埋めてあるというタランティーノ流の面白さ。例えばチーズバーガーのヤツには仕事の殺し、カマ掘り野郎には怒りの殺し、ブッチは衝動の殺し、ヴィンセントは間違って殺し、そしてジュイスが行き着いたのは殺さない。その間にメタクソな雑談を交わし、気の利いたセリフがある。実はそれが一番大事だっちゅうぐらいにどうでもいい会話はあちこちにある。
殺す前に話して聞かせるという聖書の一節、要は「正しい行いをしようとする者を邪魔するヤツには懲罰的な制裁を課しても構わない、むしろそうすることが神の意思である」ということだが、自分が神懸かり的に死を免れると、神の存在を近くに感じたとかって急に殺しをやめてしまう。
この映画の中の人間にとって殺すなんて屁でもないことなんである。だから間違って殺したり、急に殺すのやめたり、またクソが終わってトイレから出たら殺された、なんてマヌケな死に方をする。
ギャング映画で重要なファクターである銃殺しが結構いい加減に扱われ、ヤク中を介抱したり、脳ミソをふいたり、バレーボールの格好をしているのが妙におかしい。なんだか日常のギャングとは違う、変な感じの奴らなんである。一番強くてかっこいいはずのボスが掘られるし。
一見非日常的光景に見えるこの話も最も日常的なギャングの光景で、どうしようもない仕事で気疲れしたり、突然神に目覚めるのもギャング的な格好良さの裏っ返しの格好良さ、「格好良いことはなんて格好悪いんだろう」の裏返しの格好良さのような格好良さをジュイスやヴィンセントに感じずにはいられない。
初見の衝撃はでかいと思います。是非見ることをお勧めします。

野獣死すべし ★★★★★

ある晩刑事が何者かに殺され拳銃を奪われる。そして隠れ賭博場での殺し。さらに銀行強盗騒ぎ。犯人の目星をつけた刑事が追跡するが・・・。
松田優作演ずる主人公は所謂キレ役で、見事にはまっている。その緩急というかキレ具合が異常だ。一般の人間はもちろん自分を愛する者をも躊躇なく殺し、相棒を殺し、果てに殺されるという、「殺し」と言うか「死」に対して躊躇がないとこが凄く印象に残った。
前半でも所々でわかるのだが、後半部で明らかとなる優作演ずる殺人鬼のトラウマ的殺しに対する欲求、その欲求が殺しの「快感」ではなく、殺しそのものを求めていること、またそれを演ずる優作の姿は鬼気としたものがある。
この映画で象徴的なクラシックの音楽、それには死のイメージがある。協奏曲なんていろんな楽器が組み合わさってなんだか死者を奉って迎え入れるようなイメージなのである。ロックの衝動とは対照的に、だから好きなんだが、まさしくこの映画にふさわしい音楽なんじゃないか。
初めて殺人を犯した相棒が恐怖しているシーンで、「君は人を殺したから恐怖を感じているんじゃない。人を殺すことに快感を覚え始めている自分に対して、とまどいを覚えているのだ。」「いいんだ。それでいいんだ。いいか、君は今確実に美しい。それは神さえも、否定できない事だ。」優作が語りかける。相棒役の鹿賀丈史はアフロヘアなのだが、それはもう確実に美しい。本当に美しい。このシーンは本当に衝撃を受ける。
レストランでウェイターの鹿賀が、優作に「なに見てんだコラ」とふっかけたあとに、優作得意の「死んだ目」で睨まれたじろぐシーンなど、何気ないが印象に残る。見せ場はもちろん何気ないシーンでさえも圧倒的な存在感。凄い。
この演技は、演技を超越して松田優作の人格のひとつに既に存在するものだからこんなにはまっているのかもしれない。