バートン・フィンク ★★★★☆

WWII前後、ニューヨークの舞台劇で成功しハリウッドに迎えられた脚本家が苦悩する話。

仕掛けは多い。疑い出すとキリがない。ラスト、ホテルを後にしたバートンが海岸にいると、突然女性が歩いてきてバートンの前に座る。するとまるでバートンが滞在したホテルの壁に掛かっていた、浜辺にたたずむ女性の絵と同じような構図になる。しばらくして、鳥が海に潜ってエンド。ここだけ見ても示唆に富んでいる。

デジャブのように、なんもない浜辺に座っていると、急に美女が歩いてきて自分の斜め前に座る、なんてのは現実としてありえない。だとすると、浜辺の美女はバートンの妄想だと言うことになる。海に潜った鳥は、その女性以外が現実である事を示している。脚本家であり、ストレスの発散時やダンスシーンでわかるように、「クリエイター」という意識が非常に強いバートンにとって、妄想が膨らんで現実と重なるのは、無くはない事だ。

するともう、このストーリーはわけがわからなくなる。細かい部分では、蚊・ホテルの異常な暑さ・外壁からしみ出る糊のようなもの、バートンの目にとまる奇妙な光景は、彼の妄想かもしれない。知り合ったばかりの女性が、バートンのような奇抜な風貌の男の部屋に、呼び出してすぐに来るだろうか。朝起きて、横を見るとその女性が血まみれで死んでいるなんて、クリエイターにとっては非常にエキサイティングな状況だ。ひょっとして、チャーリーや、ハリウッドに来たことすらもバートンの妄想かもしれない。チャーリーに渡された箱は、いわば「現実」のシンボルであって、バートンが「チャーリー」の私物である箱を「開けない」のは、そこに現実が詰まっているから、深読みすると、酷い戦争が詰まっているからという事になるかもしれない。

以上は俺の想像(妄想ではない)であって、コーエン兄弟の狙いは全く違うかもしれないし、そもそも狙いなんてなく、示唆に富んだ仕掛けを張り巡らせれば、見る側が勝手に解釈してより良い着地点を見つけるだろうと、見る側に評価を丸投げしているかもしれない。沈黙は金とはよく言ったもので、ある妄想を、雄弁な連中に想像させれば、勝手に良い方にまとまるのである。落語にもこういう噺はあった。見終わって調べてから分かったことだが、実際本作は1991年度のカンヌでパルムドールを含む三部門を受賞している。

この「カンヌ」つーのがわかりやすいつーか、映画を熟知した批評家連中にとって、本作は雄弁に語るのにうってつけな素材だったのだろう。そこまで見越してコーエン兄弟が製作したとすると、月影先生言うところの「恐ろしい子」になるが果たして。

武士道残酷物語 ★★★★☆

江戸時代から昭和30年代まで、自分の先祖の残念な人生を振り返っていく話。

江戸時代の封建社会の理不尽さを描いた作品。極端ではあるが、こういうの見ると昔ってすげえと思う。主君が死んだら、主だった家臣が後を追って殉死する。流石にこの風習は江戸の初期、第4代の家綱の時代だったかに法律で禁止されたが、戦国時代あたりから少なくとも家光の時代までは、殉死が「忠義を示す絶好の機会」として捉えられていたということだ。あーーーーー、すげえなやっぱ。

つまり死は家を繁栄・維持させる手段である。個人は家の中に埋没し、その家は世間を形成して国のために存在し、その国は大名のためにある。ここでようやく個人(大名=主君)が家に先立つ。大名の上には徳川幕府があり、頂点に個人(将軍)がいるが、江戸時代の日本は実質的には一つの強力な国がある連邦国家のようなもので、各藩の政治体制は極端なトップダウンだ。トップダウンの場合、トップの資質が優れていれば、民主/共和制よりよほど機能する。逆の場合は最悪で、本作のようになる。

特に酷かったのは天明期の田沼時代、剣の達人である先祖が、まず自分の弟子と結婚させる予定だった娘を身売り同然に江戸に送られ、妻に殿様の一時的な酔狂で死なれ、挙げ句に弟子と娘を自分の剣で殺してしまう。それでもなお、主君の名を尊ぶ心理は、先祖や家を考えての耐え難い我慢なのだろう。仮に怒りにまかせて主君に刃向かったとしたならば、自分は当然処刑されるとしても、家は取り潰され、一人残した幼児は転地の上平民か、最悪非人にまで貶められる事になる。それを考えての態度であり、また主君の方もわかってもてあそんでいる。

そして現代、このきちがいじみた封建社会は、特攻隊出撃の際の特攻兵と帝国海軍との関係性、また(当時の)現代社会における会社員と会社との関係性に置き換えて当てはめている。この構図・残酷さは確かに普遍的に通ずる感覚であり、今なお残る日本的価値観・封建社会的家重視の名残なのだろう。

めし ★★★☆☆

主婦として日々炊事・洗濯・掃除とルーティーンをこなす事に疲れたミチヨが、気晴らしに帰郷する話。

タイトル「めし」に込められた意図は、夫が妻に単語で命令する、「(おい)めし!」ではないかと思う。昔ドリフか何かのコントで、「めし!」「風呂!」「寝る!」の3つだけの夫婦生活を描いたものがあったように記憶しているが、本作もその状況における主婦の心と、まるで女中のような窮屈な暮らしぶりを描いている。

そんな日常をぶっこわしたのが、東京から急に家出してきた親戚の娘だった。彼女は典型的クラッシャー、自由奔放な行き方は、今のミチヨにとってその存在そのものが気に触る。夫との関係も微妙にこじれ、ついに彼女は日常からエスケープ、実家でのんびり暮らすことになる。

東京の実情や、昔の友人の苦労を見ることで、あの日常がいかに充実していたかを思い知らされて、またいつもの普通に戻る。ストーリーでは大した展開は起こらないし、まさに平凡・日常を淡々と綴るのに終始する作風は、逆に現代にはない落ち着きがあって興味深かった。

鬼畜 ★★★★☆

昔の女との間にできた三人の子供を押しつけられ、今の女と共謀し子供をなんとかしようとする男の話。

表現の規制(自粛・自主規制)が、表現そのものにとっていかに足かせ・ボトルネックとなるかが、本作を見るとよくわかる。演技とは言え三人の子供に対する仕打ち、いじめ、疎外感、家庭内暴力は、今の世情で製作するとなると、子供の人権が、だの、トラウマうんぬん、PTSD、などなど、「諸々の事情」でそれらしい雰囲気を演出するに止まるだろう。

しかし、本作におけるまさに鬼畜な二人の人物描写は、子供に対する非道な行いを通してしか見る側に対して伝わらないと思う。ストーリーはなんのことなく、ただ愛人に愛想尽かされて子供を押しつけられた男と今の女がその子供をどうにかするという、何の仕掛けも奇抜さもない、どストレートなものだ。ほとんど見た事はないが、よっぽど今の火サスのようなテレビ2時間サスペンスドラマの方が、ストーリーの起伏に富み、トリックもあり、面白味はあるかもしれない。ただそれが小手先の幼稚なものに感じられるほど、本作の鬼気迫る描写がもたらす本気度の高さは、たとえ現代の基準では人権蹂躙であろうと、あのむごい仕打ちを隠さず描く事で表現されている。女の苛立ちを描くのに口に飯をぶっ込む事は、どうしたって必要だ。

冒頭からして凄い。切羽詰まった女の表情、押しかけ対決する二人の女、そこに重なるしょぼい男、この20分程度の導入部分はよく目が詰まって凝縮されていて、三者三様かっこいい。小川眞由美という女優さんをあまり知らなかった(なんかどっかで見た事あるけど、何の人だったかな~程度)ので、見た後調べてわかった事だが、小川眞由美と岩下志麻はこれ以前に共演することが多かったらしく、それが本作における素晴らしい啖呵切りの、見事に呼吸のあった最強さに繋がっているのかもしれない。

現代でも家庭内暴力は時折ニュースとして見るので、こういう事は現実に起こっている。知らないガキが常に家にいて自分を苦しめるうっとうしさ、我が子を暗黙的に殺害したり、捨てたり、海に突き落とすために旅行する、この心理は、今の俺のリアルにはならず、時代性もありリアリティも薄かった。ただ、今まさに自分の問題として本作のような状況を抱えている人が見た場合、それはリアルにも重なり、また時代を超越した心理状況においてリアリティを持てるだろうから、不謹慎ではあるが、そういう人の感想を見てみたい気にもなった。つーかこの発想、ちょっと鬼畜だな。


ブレス ★★★☆☆

何度も自殺未遂を繰り返す死刑囚のもとへ面会に通う、家庭崩壊寸前の女の話。

キム・ギドクのファンタジーということで、主役二人は言葉をほとんど発さない。男に至っては一言もなかった。ただし通常(ギドク作品の)そうすることが独特のファンタジー世界演出ということだったが、本作の場合自殺しようとして咽に鋭利なものを突き刺したのが原因のため、物理的に話すことができない。

女は、心の離れた夫の代わりを求めて、死刑囚の男に会いに行ったのだろうか。発作的に始まった逢瀬、最初彼女は自分の鮮烈な記憶を話すことで、まず秘密を共有し言わば人工的に恋愛関係を構築していった。次の春・夏・秋それぞれの変な歌3連発は、夫との関係の中で記憶に残るシーンを模してある。

そこであの歌なんだが、恐らくだが(曲調から推測)韓国における、日本で言うところのポピュラーなアイドル歌謡(ex.木綿のハンカチーフとか瞳はダイアモンドとか)であって、歌と当時の記憶が結びつきやすい類の、ポピュラーソングだと思われる。それを唐突に、壁紙や小道具まで用意して歌ってしまうのは、良かった時代の記憶にすがりたい心境なのかもしれない。ベルが鳴って死刑囚の男がいなくなってからの、壁紙をベリベリ剥がす時の無表情は、過去の理想的非現実から、今の絶望的な現実へ戻される、コントラストから生じたものだ。

だから、最後の冬の歌を歌うのが家族関係を修復した親子三人になるのは、あまりに悲惨な印象が残る。結果から逆算すると、死刑囚の男は夫婦関係修復のための手段として用いられたということになり、さらに彼が一家殺人で死刑となったこと、家族三人が車内で歌っているのとは対照的に、雑居房の同居者から絞め殺されるという対比は酷に感じた。

というのは、彼がなぜ一家殺害をやってしまったのか、その理由がわからなければ、まず彼女を受け入れたこともそうだし、こうして無碍に殺されるに値するのかどうかも、見ている側は判断の材料がない。ここで、キム・ギドク的無声の弊害が出てしまう。保安課長が許可し、成り行きを静観したのもよくわからないし、いくつか謎が残ったままの終幕となった。

スパイナル・タップ ★★★★★

ロックバンド、スパイナル・タップの全米ツアーのドキュメンタリー。

ロックは、残念ながら、ダサい。この事をすぐに気付く人は少ないと思う。一見、ロックはかっこよく見える。なんかよくわからんけど、ギターを持ってギュイーングワユワーってやって、ピロピロ~~とかやって、・・・、・・・、・・・・ドコドコドコドコ、!!!!チャーチャーチャーチャーチャーン!!!ビービー!とか(各自脳内で変換)、一連の演奏がきまったら、かっこいい。

でも一寸よく考えて欲しい。その、先程までかっこよかったロッカーは、なぜ髪がもっさりと長いのだろうか。ソバージュをかけてるんだろうか。オカマなのか。ギターのヘッドを斜め上に上げて、苦悶の表情を浮かべているのか。☆のマークがいっぱい入ったラメのシャツを着ているのは。袖にすだれみたいのがついているのは。革ジャンにジーパンでラバーソールを履いているのは。なぜ演奏が終わったら半裸なのか。むしろなぜ最初から半裸なんだろうか。これでもわからなければ、「マイケル・アンジェロ/Michael Angelo」というキーワードで検索し、なんでもいいから動画を見て欲しい。・・・・・・。しばらく待とう。・・・・・。・・・・・。どうだろうか。

このように、本当に残念なのだが、ロックはダサいのである。一見して感じるかっこよさは、音楽の素晴らしさとそれに取り組む衝動との相乗効果で、ダサさが覆い隠されたに過ぎず、やはりよく見ると本源的なダサさはどうしても隠しきれない。スパイナル・タップとは、ロックのダサさを真正面から捉えた、全ロッカー(リスナー含む)推奨の、愛すべきロック映画だ。

ストーリーの中で、幾度となくロックの本質であるダサさが描かれるが、それはどれも、ある種の「あるある」に感じられるから、なんかもう、そういう俺がイヤだ。「11の方が10よりでかい」という事に意味を求めてはいけない。11は10よりでかいのである。問答無用。

音楽に限らず、ロック愛好家は人生の様々なシーンにおいてスパイナル状態に陥る。ロックに魅入られた人生は、これまた残念ながら苦節続きである。スマートに、予定通り、秩序立てて、論理的に、積み上げるのは不可能だ。いつもグダグダ、思い通りにいかず、急がば回れども遅れ、理屈が通じず、笑われのけ者にされて、道の端っこを歩くハメになる。ただ根っこの部分で一番やっかいなのが「当の本人がどこかでそれを望んでいる」つーのがもう、ホント、質悪い。ロックとはそういうものであり、そういうロックは、必然的にダサくなるのである。

これまでの映画感想を振り返る PART5 完結編 ☆★☆★☆

「見た映画については必ず感想を書く」という俺ルールについてのこれまでを振り返る話その5。

ついにPART5、本編最後である。なんせ「完結編」なんだから、なんらかの完結を迎えねばならない。それでは、と、それでる前に、見る映画の入手方法についてこれまで一切触れてこなかったので一応書いておこう。

・ソフトの入手方法

映画の場合、視聴環境は主に映画館または家になると思うが(あと飛行機の中とか携帯端末とか)、よっぽどすぐに見たい映画でない限り家で見ている。映画館は割合にして5%ぐらいか。映画館は集中度や没入感、音響の面で家を圧倒するが、なんせ他人様がいるもんでそっちが気になる事もあり、また家の場合つまんなく感じると、ギターの運指練習をしながら観たりできるが、映画館での拘束は最後まで観ると決めている以上、解消しようがない。

家視聴のうち半分がレンタルだ。まだブルーレイ環境がないためDVDがほとんどで、VHSしか在庫がない過去のドマイナー作品のみ、未だにVHSでも見る。逆に言うと、「VHSで残す価値(需要)がある」という事でもあるため、今VHSで在庫されているものは大抵の場合超個性的な作品が多い。後述するぽすれんの場合、1回10本前後借りて2,000円程度だ。PART4の評価ポイントデータは、俺個人についての統計データとしてかなり信用できるサンプル数に達している。それによると、厳選したところで45%の「ふつう・まあまあ・つまんない・クソ」があるのだから、映画館とレンタルの10倍近い料金差はかなりでかい。

後の半分はスカパーの映画チャンネルになる。こちらは月単位のパッケージとして配信されるものの中から気になるものを観るという、半受動である点がレンタルや映画館と異なる。ジャンルや年代も幅広く、意外と1-2年前の作品で見逃していたものがあったり、監督特集は数ヶ月にわたって10-20本まとめて観れたり、ハマればレンタルよりも便利だ。数年前のイマジカのキム・ギドク特集は、まさに見たいタイミングで特集を組んでくれたので、スカパーの良さを感じるプログラムだった。昔わざわざ新宿TSUTAYAまで借りに行ったATG作品やマイナー・ヨーロッパ映画も結構やってくれてあなどれない。反面1本も見ない月もある。

セルDVDについては視聴目的ではなく、レンタルで見た後特に印象的な作品や、数年後見直すとまた違った感じになるであろうものを、保存目的で購入することがほとんどだ。現在映画以外のソフトも含めると数十枚セルDVDを持っているようだが、パッケージ開封すらしていないものも結構ある。

・レンタル屋の変遷

レンタルの入手元は色々変わっていった。最初期の「記憶のみ」を観ていた頃は、その当時日本に進出していた「ブロックバスター」で、VHSビデオをレンタルしていた。料金は正確には覚えていないが、大体1本400円前後だったのではないかと思う。あるいは3本1,000円とか。やがてブロックバスターが日本撤退し、しばらくは大手でない個人営業のレンタルビデオ店を利用していた。その後2000年頃に、ゲオがレンタル全国展開を始めたような気がする。つーかWikiで調べると、まさにゲオがブロックバスターを買収して、レンタルのフランチャイズを拡大したのが2000年頃のようだ。そしてしばらくはゲオの5本1,000円を利用していた。一度に5本・10本借りるようになり、このくらいから映画鑑賞が習慣化する。またこの頃ようやく、VHSとDVDが半々ぐらいになった記憶がある。

TSUTAYAは何やってんだ。あるにはあったが、店舗が小さく在庫も料金もゲオに負けていた。その後2000年代中期に大型店が近くにできて在庫数でゲオに勝り、さらに定期的に出されるクーポンを利用すればゲオ並の5本1,000円も可能になって、ゲオからTSUTAYAに乗り換えた。そして最近までTSUTAYAだったのが、ここ1年は主にぽすれんを利用している。

ぽすれんは宅配レンタルサービスだ。ぽすれんのサイトから見たい映画を選んで、諸々の発送手続きをすると、なんか知らんがメール便で勝手に送られてくる。返却は郵便ポスト。現時点では最大12枚まで一度にレンタル可能で、旧作の100円レンタルの場合送料含めると、12本で1,500円となる。1本当たり125円。レンタルビデオが出始めの頃は1本1,000円が普通だったらしいが、今や1/8だ。100円レンタルはいわゆるロングテールの下側需要を狙って始められたサービスだと思うが、やってみるとかなり好調らしく、期間限定が延長に次ぐ延長で今に至っている。

ここで、店舗型と宅配型それぞれの特徴を挙げてみよう。

・店舗型

店舗型は閲覧性が高い。入店すると大体入口付近に最新作が並び、その近くに準新作のトップ30みたいなのがあり、旧作は50音順かカテゴリ別に配置してある。ピンポイントで見るものが決まっている場合は関係ないが、「とりあえずビデオ屋行ってから見たいのあるか探そう」という徒手空拳の場合には、この閲覧性の高さは重要である。

それぞれのカテゴリを横断的に見ていくと、昔見ようと思って見逃していたものや、タイトル一発に興味を引かれるもの、同一カテゴリで抜けていたもの(監督コーナーなど)を、網羅的に見る事が出来るため閲覧の効率は高い。宅配型の場合、網羅的に閲覧するにはPCをグリグリいじらねばならず、適していない。例えば同じ100本のタイトルだけザーっと見るにしても、店舗でDVDの背を見ていく方がはるかに情報量が多く時間効率も良いだろう。

・宅配型

宅配型は利便性が高い。店舗型の場合、まず店に出向き、店内を馬鹿みたいに徘徊して、通路の狭さに苦痛を感じ、最下段のアイテムを見るときはうんこ座りか己の体前屈能力との勝負、目的のタイトルがあっても正確な配置場所はわからず、レジでは並ばされ、一連のマニュアル対応に従い、そして、これが店舗型一番のデメリットだが、返却せねばならないのである。宅配型の場合、家のPCでゆっくり快適に探す事ができ、目的のタイトルはキーワード検索で特定でき、レンタルから数日後には家の郵便受けに入っていて、見終わったら郵便ポストに投函し、完了である。この点は店舗型はどうやっても勝ち目がない。

また料金的にも店舗型より安い傾向にある。これはネットショッピング全てに共通する事だが、地代と人件費を圧縮できるためその分レンタル料金を安くすることができる。ゲオとぽすれんがスポットレンタル100円を始めてから、店舗型との料金差は大きく広がった。地方によって、店舗のゲオとTSUTAYAが近くにあって熾烈な競争をしているような地域だと、場合によっては1本50円程度でレンタルできるようだが、店舗型の基本線は未だに1本400円である。

一方確実性という点では、ソフトを直接受け取り、レジまたは返却ポストに戻すという手続きを踏むため、店舗型に間違いはまず起こらない。宅配型は、メール便(現時点では佐川の飛脚メール便)と定形外郵便の併用で、どちらも手渡しでなくポストに投函で終了となるため、万一の間違い(メール便の遅配・ポスト荒らし・ビニールの破損による事故)が起きる可能性はある。俺自身こういう事は経験していないが、一度でも起きてしまうと、利用を控えるかもしれない。

この点VODは宅配型のメリットを残しつつ、返却不要というので理想的ではあるが、高速ブロードバンド環境や専用ソフト・ハードの普及、コンテンツ保護、コスト面など、問題は多そうである。アクトビラなどは面白い試みではあるので、今後の動向待ちだ。

・在庫

次に在庫についてだが、店舗の場合、当然各店舗にあるだけが実質的な在庫となるので、在庫数は店の売り場面積に依存する。メジャー系や新作は大体どの店舗にもあるので無視するとして、旧作、特にマイナーな作品は店舗によって大きく差がある。例えばTSUTAYAの場合だと、新宿・渋谷TSUTAYAにだけしかない作品はかなり多い。この二つは在庫の豊富さで有名であるから、むしろ例外的な店舗なのだが、映画をよく見る場合、大型店でないと在庫に満足できないだろう。

宅配の場合、システムは厳密にはわからないが、恐らくどこぞの配送センター(たぶん千葉)に集中して在庫され、在庫量はレンタルサイトとリアルタイムで連動している。ひとつに集中しているため、店舗格差は当然無く、メジャーも新作もマイナーも条件は同じだ。ただし、マイナーはそもそもの在庫量が少ないので、それを全国のレンタル希望者と争奪することになり、マイナーだが人気は高い(いわゆるカルト的)作品については、レンタル自体が困難である。

まとめると

  利点 欠点
店舗型(TSUTAYA・ゲオ) ・閲覧性の高さ
・思いがけない発見
・レンタル手続きが不便
・在庫が地域によりマチマチ
宅配型(ぽすれん・DMM) ・利便性の高さ
・料金が安い
・全国均一の在庫
・網羅的閲覧には不向き
・在庫数によってはレンタル自体がかなり困難な場合がある

となる。

なんじゃこれは。感想の感想を書くはずが、店舗型と宅配型レンタルの比較になっとるじゃないか。どうなっとるんだ!

天狗じゃ~~~~~~~!!天狗の仕業じゃ~~~~~~~!!!

これでいいか。

これまでの映画感想を振り返る PART4 頂上決戦 ☆★☆★☆

「見た映画については必ず感想を書く」という俺ルールについてのこれまでを振り返る話その4。

なんかとことんやってやろうという気になってきた。そろそろ本題に入った方が良い気がするが、その前に、感想のフォーマットについてこれまで一切触れてこなかったので一応書いておこう。

・タイトル/日付

タイトルと日付はそのままで、タイトル横の☆や★は評価ポイントだ。そのすぐ下、本文一行目の太字になっている部分が映画のあらすじである。タイトルは原則として邦題に準拠している。日付は「公開日」ではなく「俺が見た日」である。

・評価ポイント

評価ポイントは、★★★★★が最大点で、☆☆☆☆☆が最低点の原則5段階評価にしている。縦に並べたときの見やすさを考えて、+ポイントを★、ポイントなしを☆にした。評価の基準だが、

★★★★★ 面白い。最高。時間を忘れる。クセはあるが俺に合ってる。
★★★★☆ 完成度が高い。面白いがオチが弱い。何か引っかかる。ハリウッド優等作。
★★★☆☆ 無難。つまんなくないが面白くもない。万人受け。ハリウッド大作。
★★☆☆☆ ”なんか”つまんない。御都合が気にかかる。
★☆☆☆☆ つまんない。クセがあり俺には合わない。気持ち悪い。
☆☆☆☆☆ うんこ。例外。評価不能。

と、多少のブレはあるが大体こういう感じである。例外的に、B級映画と純粋なコメディは★3で最高評価となる。次にインデックスリストを適当なGREPツールで検索し、それぞれの割合を出してみた。

評価 割合 近似評価の割合
★★★★★ 105 19.9 55.5
★★★★☆ 188 35.6
★★★☆☆ 142 26.8 35.3
★★☆☆☆ 45 8.5
★☆☆☆☆ 34 6.4 9.2
☆☆☆☆☆ 15 2.8
合計 529 100 100

評価を付けていないものや、関連ファイルがあるのでフォルダのファイル数と評価合計数とは若干(でもないが)異なる。こうみると、やはり自然と評価は高い方に寄っていく傾向にある。それもそうで、何も誰かに強制されたり完全無作為で見る映画を選んでいるわけではなく、パッケージやタイトルで「面白そうだ」と思ったのだから、まあこの数字は当たり前ちゃあ当たり前だ。

15あった☆☆☆☆☆は以下の通り(タイトルのみ)。

小人の饗宴
アメリカン・クライム
LAST PRINCESS
アイ・アム・レジェンド
ワールド・トレード・センター
ALWAYS 3丁目の夕日
残虐全裸女収容所
PRIMER
オープン・ウォーター
ディープ・コア2002
パッション
あずみ
ジーパーズ・クリーパーズ
けものがれ、俺らの猿と
AVARON

このうち評価不能(小人の饗宴、アメリカン・クライム、パッション)を除いた12本は、掛け値無しに俺的クソ映画である。中でも、「ALWAYS 3丁目の夕日」は世間様とのあまりな乖離ぶりに愕然とさせられ、「ディープ・コア2002」は誰にも通ずるであろうクソぶりだったのを、よく記憶している2本だ。

・あらすじ

あらすじはどこかから拝借するのではなく、見終わった後ストーリーを大雑把にまとめる感じで構成している。たまにあらすじでなくイメージ表現の場合もある。最初の頃は結構マジメに、登場人物の名前もキッチリフォローして、あらすじ的なあらすじを書いていた。それが段々簡略化され、名前も忘れたら「なんとか」「○○」で済ませ、やがて「一行勝負」の俺ルールが確立された。例えばアップロードされてる分で一番古い(記憶のみは無視)ジャッキー・ブラウンのあらすじは

銃の密売屋であるオデールの周りには愛人の女、相棒、そして現金の運び屋のジャッキーがいる。そのジャッキーが現金運びの途中に捕まってしまう。自分の事をあれこれチクられることを恐れたオデールは、保釈金融業者をつかってジャッキーを助け出す。そしてジャッキーとオデールは、彼の全財産50万ドルを運び出すためにある計画をブチ立てるのだが・・・。

タランティーノの映画はストーリーが複雑なので、あらすじとしてはこれくらいあってもいいかもしれない。これがキル・ビルになると

結婚式で親族を惨殺された嫁が復讐の旅に出る話。

とこのように変わった。「~~話。」でなるべく終わらせるのも俺ルールだ。

以上が感想フォーマットとなっている。PART4にしてようやく外堀を埋められた。PART5ではなんとか、本来の目的である「感想の感想」について振り返りたいところだが、どうなるかは書いたときのノリによるので、そこんとこは俺にもようわからん。

これまでの映画感想を振り返る PART3 代理戦争 ☆★☆★☆

「見た映画については必ず感想を書く」という俺ルールについてのこれまでを振り返る話その3。

別に仁義シリーズから感化されて、狙ってこうしたわけではないが、結果的にシリーズものになってしまったので、今決めたが、このシリーズはPART5でもって完結させることにした。「感想の感想」をPART5まで引っ張るとはアホの限りだが、これまで培ったテーマに対する脱線力を駆使すれば、意外と簡単にいけると思う。

そもそもなぜ感想を書くのか。これは実際、書いてみると理由がよくわかる。なんらかの表現を見た後、その漠然とした印象を言語化するのは非常に難しい。実用書やドキュメンタリーであればテーマは明確であり、重要なポイントは論理的に導けるが、表現の場合、基本感想は「よかった」「ふつう」「つまんなかった」しかない。印象とはそういうものだ。

ただ言語化することで、その漠然とした印象が、説明可能なものとして表出されることがある。言語化にチャレンジすると、そうなることがたまにある程度だ。だから書き始めはとても苦しい。「なしてせにゃならんのか」と、自分で決めた枷に大抵の場合自問する。それを何とか越えたら、見終わった後思ってもいなかったような印象が、言語化してまとめる事で新たに持てるようになり、ひらめきや解決の瞬間は結構快感である。

また、これは個人の性格にも関係あるんだが、映画を見て見たら見っぱなしで一週間後、一ヶ月後には「見たこと」以外、あるいはそれすらも全部忘れるというのはもったいない。おぎやはぎの小木は年間百本近くの映画を見るそうだが、その内容は全く覚えておらず、そんな映画好きなのに「今までで一番好きな映画は?」「ロッキー!」これぐらい、逆に突き抜けていればそれでもいいと思う。要するに貧乏性であり細かいことが気にかかる性格にとって、インプットしたものをアウトプットで一々返していく事は、精神衛生上必要だ。

ではなぜ映画か。世の中には過去の蓄積も含めて膨大な量の表現がある。文章・絵画・音楽・映像・ゲーム・漫画など様々あるが、この中で「感想」として印象をまとめるのに映画は一番やりやすかった。なんらかのストーリーがあり、起承転結のフォーマットがある。なにしろ「始まって、必ず終わる」のである。例えばカンディンスキーの絵を見て感じた印象を、言語化するのは易しくない。展覧会の図録にキュレーターがこれでもかと、ベラベラベラベラ書いているが、あれ読んだことはないが「お前マジか」だ。

また映画は「つまんなさのリスクヘッジ」ができる。レンタルソフトの場合最近だと1本200円程度で入手でき、時間も概ね120分前後になぜか決まっている。見終わった結果つまんなくても、この程度の損失であれば、面白さを追求するのに十分許容できる。

以上が、まず映画を見ること、そしてその後感想を書くことの、動機付けになっている。どうだろうかこのでっち上げぶり。PART3にして未だ、我が書いた感想のまとめ的な事を一切やっていない。というわけで(この言葉も「閑話休題。」並に便利だな)、いよいよ本題に入るのか?、それは俺にもわからない、PART4に続く。

これまでの映画感想を振り返る PART2 ☆★☆★☆

「見た映画については必ず感想を書く」という俺ルールについてのこれまでを振り返る話その2。

2010年01月時点での映画タイトル数は、カテゴリで表示されている分で257。対して俺のローカルフォルダにはファイル数551。つまり公開した感想は約半分だ。こうなる理由はまず、「書いたものをサイトに反映させるのは面倒くさい」これがでかい。感想はいつでも見れるようにローカルに残しておきたいので、昔から使っているホームページビルダー6の自作テンプレートでまず書く。それをサイトに反映させるには、まずログイン、これがまたIDとパスワードがクッキーに残ってなかったりして、調べるために昔送られてきたメールを全文検索して漁ったりして、ほんでもってようやくWordpressの編集画面にたどり着く。

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タイトルと本文をローカルからコピペ
カテゴリ指定
日付を書いた日に変更
公開!
HTMLタグを見た目との兼ね合いで加除
更新!

ログイン含め、実に7-9つの手順を経ねば、ローカルファイルはサイトに反映されないのである。正直なところ、俺にとっては「昔見た映画の感想がヴィヴィッドな形で残っている」事が一番重要であり、それを公開するのは、ほんと正直なところ、ついでな感じだ。もちろん見てくれた方が何か感じたり、何かのきっかけになるとうれしい。ただ個人的には書いてローカル保存で完結しているので、結果的に約半分の感想がサイトに反映されていない。現状ログインして編集画面に行った際に、最近のものからいくつかまとめてアップロードする形を採っている。2007年10月の「ワールド・トレード・センター」から、2009年02月の「ダークナイト」まで、1年4ヶ月ほどずっぽり抜けてるのは、映画を一切見ず感想も書かなかったのではなく、「単に一連の手順がめんどくさかったから」である。

例外はあり、例えば最近の「山谷(やま) – やられたらやりかえせ」感想のように、極少数ではあるが興味ある人にとって多少参考になるようなものは、積極的にアップロードするようにはしている。その他俺の文章のメインであるところの、平たく言って「うんこちんこ的」な感想は、まあ、前述した感じだ。

・・・・・。

いかんいかん!!!!この流れは例のあれだ。テーマが脱線しまくって結局テーマに触れず茶を濁して終了のパターンだ。仕方がないが、個人的にはあまり使いたくない、スマートでないこの方法で流れをぶった切ろう。

閑話休題。

これって司馬遼太郎のやつだっけ。というわけで閑話休題の、当初想定していなかった、PART3突入である。