これまでの映画感想を振り返る ☆★☆★☆

「見た映画については必ず感想を書く」という俺ルールについてのこれまでを振り返る話。

下にKou-shi(この名前の由来が由来だけに、なんか周辺の人が死刑確定しちゃったりして、名前だけでも時間を感じさせるなあ)が振り返っているように、このサイトは複数人で運営されている。して俺の場合は、基本映画とサッカーの感想に絞っている。当初色々書いていたが、ある程度まとまった量を出せるのが、結果的にこの二つになった。見る側としてよく活用させてもらっている、商品レビューもやろうかと思うことはあるが、レビューを発信する場合、写真や比較・ベンチなどの性能評価で手間がかかり、ある程度内容のあるものでないと、検索でたまたま見た人のガッカリ感がハンパ無い。

つい最近PCケースを探していて、「Sileo500」という防音加工されたケースに決めた。これについての記事を探そうと検索すると、まずオフィシャル、次に価格.comのレビューとコメント、してAmazonのレビュー、ニュースとショップ、youtubeのレビュー動画、とこのへんの定番系を見た後、個人のサイトやブログでのレビューを見てみる。もちろん詳しく(写真付きで)書いてくれている所もある。ここなんかは詳細な外観写真・スペック、さらにノイズの録音素材も提供してくれて、非常に素晴らしい。小坂忠であれば「き・み・は・す・ば・ら・し・い」と言うかもしれない。こういうサイトは内容があるため参考になり、記事として残す意味がある。ただ必ずあるのが、

Sileo500買った。来週届く予定。超楽しみ。

↑ブログが普及して、htmlもFTPも知らなくても日記が書けるようになってこんなの増えた。検索して見たページがこんなんだと「テメエ検索に引っかかるから書くなよボケ」と、書いた人にはとても申し訳ないが、率直に思ってしまう。この記事も、Sileo500というキーワードがあるにかかわらずなんら情報はないが、一応超詳しいサイトのリンクの紹介で、最低限の有用さは保たれていると思う。さらに最近ではTwitterが検索に引っかかるようになり、

Sileo500ってケースいいかも

↑とかまあなんだ、Twitterってそういうもんなんでしょうよ、て感じのやつまで検索に引っかかる。個人批判ではないので文章はあくまでイメージだ。PC関連はいわゆるギークが多いのでこういうことは少ない。とにかく、内容が伴っているかどうかは個人の主観であるから別として、残すものに関してはある程度の質か量がないと、なんかいかんような気がする。インターネットは無償だからこそギブアンドテイクが大事だ。

・・・というわけで、感想でもよくあるパターンなのだが、テーマとは全く脱線してしまったので、「これまでの映画感想を振り返る」についてはPART2として改めて書く。

上意討ち 拝領妻始末 ★★★★☆

会津松平藩家臣・○○が、嫁であり殿様の側室・お市の方をマッチポンプ的に略奪される話。

あらすじを一行で表現しようとすると、やはり「マッチポンプ」が適切ではないかと思う。あらすじの補足をすると(ストーリーのほとんどがこれに費やされるため)、お市の方は一度松平の殿様の側室として菊千代(長男ではない)を出産したが、産後療養から戻ると殿様が別の側女とねんごろになっていた。怒ったお市は殿様に平手打ちの御乱心、一度は側室となった女であり、この騒動の原因は100パー殿様にあるため、適当な家臣の妻として娶らせることにした(拝領妻)。そして数年経過、長男で世継ぎの△△が死んでしまい、菊千代が会津松平の嫡男となった。そうなると、その母親であるところのお市の方が一家臣の嫁さんであると立場上とてもややこしくなる。そういうわけで、一旦押しつけたに等しいお市の方をもう一度内儀として返却せよと言われたことが、騒動の原因である。ああーーーなげーな。つまり殿様とお市の方がうまくやっていれば、○○とお市の方は知り合うこともなく、それを返せと言われても、この数年ゼロから育んだ互いの愛情をどうしてくれんのよアンタ!と、家臣と側室が藩にキレたわけだ。こういうの、昔読んでもいない読書感想文の字数稼ぎでよくやった。

当時の時代背景を考えると、この話はかなり有り得ない。いやそりゃ、現代人の感覚で言うと封建社会ってのはわけのわからんシステムだし、権力の理不尽さに抵抗した○○及びそのオヤジ、お市の方の感情も理解できるし、彼らの取った行動を全面的に支持したい。ただ時代的には享保年間という江戸の中期(吉宗が張り切ってた時代)、しかも設定がなんと、葵の御紋を見ながらシコれるんじゃないかってぐらいの親藩中の親藩、保科正之以来の徳川LOVEを貫き戊辰戦争ではあんな感じになった会津藩であるから、なおのことこの「家臣が藩に逆らう」というのがとんでも有り得ない設定に感じてしまう。

ただこの○○のオヤジ、こいつはかっこよすぎる。「俺はこれまで□□家の養子として、カスみたいな人生を歩んでいた。ここらで一丁かっこつけようではないか」つって、やってみたところかっこがつくんだからたいしたもんだ。この頃の三船敏郎ってこういうかっこいい役がとても似合っている。かっこつけがかっこつけるとただのかっこつけだが、三船がかっこつけるとかっこいい。ここで「格好良い」ではないのは結構ポイントであって、あの感じは「かっこいい」と言うのがふさわしい。

非常にかっちり作ってあり、全くあそびの無い映画だったが、虚飾にまみれて上辺だけ八丁味噌にクチナシ色素ぶっかけてぬりたくったようなゴミ映画が量産される昨今の日本映画の状況を思えば、この重厚さはストレートに勝負していてとても素晴らしい。

山谷(やま) – やられたらやりかえせ ★★★★☆

1984年頃、労務者が暮らし仕事を得る通称”山谷”地域における、労務者とその周辺の話。

本作において「労務者」は「労働者」と区別して表現されている。明確な定義付けは恐らくなされていないと思うが、労働者がたとえば「資本家 対 労働者」「春闘」などで語られるような、団結力で権力と同等に闘い権利を主張する人々(平たく言えばサラリーマンなど)だとすると、労務者は本作で見た限り、資本家(経営側)と直接闘争することが無い。ストーリーは労務者の春夏秋冬を撮り続け、その生活や労働の実態を描写することで構成されるが、労務者が直接闘うのは、彼らが日頃仕事の世話をしてもらう「手配師」であったり、その仕事先の「下請け雇用主」であったり、資本主義の構造下ではむしろ労務者に近い人々に対して闘争が行われる。

これは見事に、かつての帝国主義時代の植民地で、植民地住民の間に無理矢理差別構造を作って管理を容易にしたり、江戸時代の身分制で農民・商工人の下に穢多・非人を置いて不満を下に向かわせた武士社会と、同じような構造が用いられていて残念すぎた。そして現代においては、相対的剥奪感によって中産層と貧困層を分断する形で現在進行中の問題でもある。

そして労務者の不満を資本家まで至らしめないための防波堤として、国家から警察、民間から右翼やヤクザが彼らの近くにいつもいた。警察にとってヤクザは排除すべき存在であるが、状況によっては都合良く黙認される場合がある。飯場やドヤ街のような、個々人の気質などで犯罪が日常的に行われる地域では、税金で賄われる警察力で治安を維持するよりも(維持は不可能)、彼ら労務者から直接ピンハネする代わりに管理を委託する形での、ヤクザによる暴力での統制の方が、体制側にとって都合がよい。

従ってよほどの脱法行為が行われれば警察は介入する(せざるを得ない)が、それ以外は基本的にヤクザと同調し、彼らを「生かさず殺さず」の状態にする。本作のメインはこの「資本家以外 対 労務者」の闘争シーンなのだが、この構造が厳然と存在し、彼らの叫びがうやむやにされるのが理解できるので、再度書くが残念すぎた。大元の部分で労務者を搾取しピンハネする、本作で出てきたところの精神病院やビルを建てるゼネコンなどは、高い壁で囲まれ、法律面では警察及び司法に守られている。この時代は山谷や筑豊など限られた地域での事だったが、現代ではヤクザや手配師が派遣会社に名前を変え、非正規雇用の範囲拡大で全国各地に薄く広く及んでいる。

実際彼らの立場にならなければわからない、経験しない事もたくさんあった。彼らはよく並ぶ。そして混雑する。朝は手配師の所で混雑する。仕事が終わっても酒場で混雑。シャッターの下からヌルリと侵入して窓口に駆け込む。混雑して、なんかの給付手帖のようなものを受付に投げ込む。厳寒の年末に収容所で並ぶ。収容されなければ道端で凍死する。とにかく印象深いのが「混雑」と「混沌」である。

そして汚い。汚いは語弊がありまくるが、なんつーか、色彩が無い。服はもちろん、街並みも、労働環境も、飯ですらも、モノトーンである。だからこそ、夏祭での歯の抜けた笑顔や、ぐでぐでの踊り、旅芸者のおやまにちょっかいだすおどけ方が、とっても悲しくもあり、美しくもある。

急にディズニーランドが頭に浮かんだ。いやディズニーに用はない。USJだったかもしれない。その中で、行ったこと無いので分からないが追加料金をいくらか支払えば、1時間とか1時間30分とか平気で並ぶアトラクションに、専用口から並ばずに乗ることが出来るという。

「お金を払えば」「並ばずに」、か。なんかこう、今回よくよく感じたのは「並ぶ」とか「混雑する」とかは、まさに搾取なのである。本来提供する側がコストを払って解消すべき問題を、受益者側が負担させられている。「俺様は自らの意志でうまいラーメン屋様に並んでいるのであって、自由市民の人権発動バリバリである!」とか「並んでいるときはDSでなんたらいうRPGをやっているから or なんたらいう本を読んでいるから、時間の無駄でも搾取でもない。むしろなにもせず並んでいる連中に比べて時間を効率的に利用しており、しかも並んだ結果の便益は同等に享受できるわけだから、俺って利口ちゃんなのよ!」とかとか、そういうことじゃないんだよな。よくわかった。「並ぶ・混雑する」構造そのものが搾取であるのは、本作を見て理解できた一番の収穫かもしれない。

そこで俺よ。さて目の前に並ぶ状況が、ある。
1.搾取と分かってそれにしたがう。なんだかんだで利口だね!
2.搾取だから並ばない。並んでいるやつはきちがいである!
3.「お前ら並ぶな!搾取と闘争せよ!」と一人声高に叫び、人々にきちがいだと見なされる。
選択肢は基本この3つしかない。 YESか、NOか、YESをNOに変えるか、だ。

しかし実際3つとも正解ではない。書いたとおり、「並ぶ」状況がある時点で全負けだ。資本家とは「並ぶ」「混雑する」を作り出す側だとも言えるかもしれない。結果俺は、並ぶ状況があり、並ばざるを得ないときは、黙して並ぶのである。

ただこれには一つだけ、解決方法がある。「並ぶ・混雑する」に参加しないことだ。そもそも並ぶ状況があることに、一番の問題がある。現実には非常に困難だが、なるべくなら「自らの意志で、並ばず・混雑しない」ことが肝要である。

話は大きく反れ、テーマは定まらなかったが、このような思考の機会を与えてくれたことはこの映画を見て良かった点である。DVDなどソフト化はされていないため、なかなかお手軽に観る事は難しいが、興味深い作品であった。

山谷制作上映委員会
http://homepage3.nifty.com/joeii/


 

今回は明確な意志でもって見に行ったので、覚え書きついでにいくつかの関連事項を記載する。

・俺とヤマ

売春の社会史を調べていて、日本の売春の歴史を遡ると自然と吉原へ向かう。そこからまず「飛田新地」の存在を知る。飛田は大阪にある、吉原と同じかつての赤線地帯であり、大戦前は公娼制度のもと遊郭が林立して風俗街を形成したという。飛田には大正時代に建てられた絢爛豪華な建物がまだあるようで、重文?に指定されているものもあるようだ。しかもここは江戸時代の吉原・張見世システムが伝統として現代に残っているらしく、嬢が店のショーケースのようなものに出張って客を待っていて、その横にはおなじみ遣り手婆もいるらしい。機会があれば見物に行ってみたい。

その「飛田新地」を調べていると、そのすぐ側に西成あいりん地区があるというのがわかった。正直この、「あいりん」という言葉をつい数ヶ月前まで全く知らなかった。で同じように吉原にも「飛田 – あいりん」に相当するものがあり、それが山谷、通称ヤマだったのである。

・映画の上映環境について

その調べる過程で、本作が不定期ながら上映されている事を知り、ちょうど良い頃合いだったので見に行くことにした。場所は中野のPlanBという、中野駅から中野通りを南に20分ぐらい行った所にある。地下鉄丸ノ内線のなんとかという駅が最寄り駅だが、どうせ中野に行くのであれば、まず北口のブロードウェイに行ってからの方が良いだろう。

会場はコンクリートの打ちっ放しに100人程度収容できそうな、地下室?のような場所で、LIVEハウスとも少し違う、小演劇などを行うような場所かもしれない。とにかくそこに、奥に段になった備え付けの木製長椅子と、横にパイプ椅子を10ぐらいと、中央をゴザに座布団という素晴らしい試聴環境で、まあ通常映画を上映するような場所ではない。それが逆に、本作が映画館から締め出されているという証の裏返しにも感じられた。客数は60-70ぐらいか。こんな極めて情報少ない映画にも、人ってなんらかの方法で知り集まるもんだなあ。

地下に下りるとすぐ受付、そこで当日券1,200円支払った。事前に予約連絡をするか、今回受付でもらったチラシを持参すると1,000円に割り引かれるようだ。

上映は16mmか35mmかはわからんがフィルムを映写機で回し、プロジェクターのスクリーンに投影するというシステムだった。画面サイズは問題なし。上映中フィルムのカラカラ音が聞こえるが、映画が始まると音声でかき消されるので特に問題はない。途中フィルム交換でインターバルがあった。映像はフィルム特有の暖かい印象であり、フィルムノイズも目立たず保管状況は良いと思われる。

音声は残念ながらアナログのままで、今例えば1980年代のNHKアーカイブスを見るとわかるように、こもり気味で聞き取りづらい。さらにプチプチノイズも多く、あまり良くない状況だった。当然現代のようにインタビュー音声にテロップが挿入されるような事はないので、聞き逃したら終いである。特に台湾の人?の話はなまりがきつく、何を言っているのかさっぱり分からなかった。音声はリマスタリングする必要があるように感じられた(今後も上映していくならば)。

新・仁義なき戦い 組長最後の日 ★★★☆☆

戦後まもなくの北九州・小倉、なんとか組のなんとかの一人の戦い。

新編PART3はPART2路線を踏襲し、その後のVシネマヤクザ映画で描かれるような、典型的なヒーローヤクザ像のキャラクターを菅原文太が演じているだけである。アクションヤクザ映画であり、さらに舞台も広島ではなく小倉、なんとか(見終わってすぐ名前も忘れるぐらいキャラに魅力が無い)が属するなんとか組(同左)と対立するなんとか組2も、文太を引き立たせるための舞台設定に過ぎない。新編とはいえ深作仁義はこれで完結するのだが、これはこれである意味自らとどめを刺した(ヤクザ映画だけに)とも取れるのではなかろうか。

こうして見ると、山守や、槇原・旭・江田らがいてこその広能であり仁義であったとよくよく思い知らされる。まあなにしろこれでシリーズは終了、全体を含めてこの評価としておこう。

新・仁義なき戦い 組長の首 ★★★☆☆

戦後まもなくの広島、流れ者黒田と大和田組の争い。

新編PART2はこれまでの流れと大きく異なり、あたかも本編PART2が山中と勝利の人物描写中心だったかのように、流れ者黒田が中心に描かれている。ヤクザの組織としての変化やそれに関わる人々の心理を描くのが仁義シリーズの、単なるアクションヤクザ映画と一線を画する要素だったように思うが、本作は「仁義」の名を借りたアクションヤクザ映画である。

したがってこれまでとは違い、正直見るべき部分があまりない。黒田をはじめその舎弟・ポン中の男・二代目を狙う相原・梶芽衣子やひし美ゆり子の愛人に至るまでことごとく漫画のように記号化された、キャラクターとしてのデフォルメが完結しており人間味が無い。その昔「○暴株式会社」というとても面白いヤクザ漫画があったが、キャラの造形はまさしくあの漫画のように単純でわかりやすく、まあ見ていてつまらないということはない。

ただ「仁義」シリーズにそれを求めている人は少ないのではなかろうか。本編5部作が完結し、次の「新・仁義なき戦い」を新路線でやってみたところ興行収入が思わしくなく、PART2でアクション路線に変更ということなんだろうか。個人的にはこれも新シリーズとして前回となんらかのつながりがあるかと思っていたので拍子抜けだった。さて一応深作作品としての「仁義」は次で最後になるわけだが、この流れだとどういう作風なのか全く読めない。いっそ広能も前の三好も黒田も復活して、もちろん山守・若杉の兄貴・旭・槇原・江田とかもう全員復活して、ドバーッとやりゃいいんでないの。

ただ良かったところ、まず三上寛が黒田の舎弟2として、バランス・オブ・パワーを崩す殺人を犯すという重要な役に抜擢されており、しかも「仁義」シリーズのテイストでは有り得ない、およそ三上らしくない歌まで歌わされて、なぜ三上寛なのか死ぬまでわからなかった。それと当時20代後半と思われるひし美ゆり子、これについては容姿もおっぱいも全て現代でも通用する。誘い方はいかにも漫画だったが。

新・仁義なき戦い ★★★★★

戦後まもなくの広島、山守組内部の争い。

本編PART1 – PART5は5部作として完結し、本作から新たなシリーズとして結局PART3まで作られた。本編からの共通点は山守組長夫婦のみであり、広能昌三以下本編に登場したキャラクターは一人もでない。ただ時代は遡り戦後まもなくからストーリーは始まるので、俺のようにタイトルだけでなんの情報もなく見ると少しわかりにくい。山守=金子信雄はあまりにキャラが強く(本編中恐らく最も、広能よりもキャラが強い)、本編とは別物である事を明示するために、別キャストに変えた方がわかりやすかった。

本編との方向性の違いは、主役である菅原文太の役柄でよくわかる。本編における広能昌三は、ヤクザ者としてのカタギでない極道精神・スジをきっちり通すことを何よりも重んじ、その点で情に厚く見る側も感情移入しやすい、もっといえば(ヤクザ≒犯罪者であるのに)応援したくなるようなキャラクターであった。彼を通してヤクザの抗争を見るにつけ、若い連中が無意味に消費されていく現状や、ヤクザ的初心を忘れ欲や権力に突っ走る重鎮連中のあがきぶりに、ニヒルな社会を投影していたのが本編5部作である。

一方今作から続く新編3部作における三好万亀夫は、スジは通すものの欲もあるし権力も望んでいる。利用できる状況は己のメリットになるよう活用し、要領よく立ち回るのである。青木の弾避けとして連れて行った女に言った本音:
「ほいじゃわりゃなんなら!こっぱ銭で体売る朝鮮Pじゃろうがい!おう!!!!」
ここで俺は方向性の違いを強く認識した。三好は、広能ではないのであると。
※朝鮮P=朝鮮パンパン または 朝鮮prostitute と思われる

ストーリーの流れは本編5部作と変わらず、というかどんな規模であれ「戦争」が起きる時というのはそういうものなのだが、何らかのきっかけ(仁義シリーズの場合誰かの出所または死)でバランス・オブ・パワーが崩れ、また均衡状態に戻すために各自がそれぞれの思惑で動くというものである。しかし、それに関わる人間模様が、本編と新編では明らかに違っている。人によってどちらが好きかは好みの問題になるだろう。個人的には、つーかアキラが出てるし、ニヒリズムで描かれる本編至上主義者だ。

仁義なき戦い5 完結編 ★★★★★

戦後20年頃の広島、広島ヤクザを統一した天政会とそれに反発する広能昌三らの話。

PART5では、PART2で山中として散った北大路欣也が天政会理事長・松村として復活。そして松方が広能の兄弟分・市岡として三度復活。またPART1で広能と同じチンピラ連中であった伊吹吾郎が広能組若頭・氏家として復活。まだいる復活、PART2で爆弾小僧として暴れ回った大友勝利が広島の重鎮として復活、でもなぜか千葉真一でなく宍戸錠に変更されている。

ついに本編の完結、PART1からしぶとく生き残った槇原が死ぬシーンは逆になんか感慨深いもんがあった。PART2からの江田もここで死亡。二人とも、名も無きチンピラに無碍に殺されるというのがいかにもこのシリーズらしくていいではないか。山守のオヤジ・おかあちゃんはまだしぶとく生きてます。

今回もまたまたPART3からのそのまんま続き、パワーポリティクスの世代交代が敢行される。シリーズ通してみるとかなり良い作品だった。広能さんおつかれさまでした。

ミーハー目線:最後までアキラは最強であった。

仁義なき戦い4 頂上作戦 ★★★★★

戦後戦後15年頃の広島、明石組+打本組+広能昌三 VS 神和会+早川組+山守組の争い最終戦。

PART4で松方が岡島組の若頭・藤田として復活。ついでに岡島組組長を演じた小池朝雄だとか、端役でころころ変わっている川谷拓三も度々復活している。

実質PART3のそのまんま続きとして描かれている作品。チンコロされた広能逮捕によりバランス・オブ・パワーが崩れ、堰を切ったように状況が激変していく様はまさに政治的で面白い。こういうのを見ると、いかに映画的に脚色されたストーリーがあるとは言え、現実の戦争に至る国同士の政治圧力や外交姿勢と通ずるものはあるように感じられる。

そしてついに暴力を凌ぐ国家暴力・警察が介入。戦前・戦後と必要悪的に有効利用されてきたやくざ連中も、組織が大きくなり影響が増すことで排除されていくのである。かつての博徒・テキヤはいなくなり、彼らは暴力団となったのが仇となったのだろう。この一連のやくざ潰しは、その筋の専門家である宮崎学も指摘する所である。

ミーハー目線:ここに来てアキラの最強さがついに最強になる。アキラ・文太・梅辰・松方の啖呵切りがかっこよすぎてたまらん。アキラと文太だけで構成されるラストシーンは最高。

仁義なき戦い3 代理戦争 ★★★★★

戦後15年頃の広島呉、山守組と結託した打本組に反発した広能昌三らの話。

PART3でついに旭が登場。そして梅辰が明石組の広島担当・岩井として復活。

シリーズ中ストーリー的見応えでは恐らく最高の作品。代理戦争の名の通り、上の連中の思惑が交錯する中で、若い連中が無碍に消耗されていくストーリーは、現実のパワーポリティクスさながらで、各自の身の置き方が様々に移り変わるのが醍醐味だ。ここにきてようやく広能が中心に描かれるようになったが、今回もやはり彼の一本気なスジ重視の考え方は受け入れられず、欲や権力によって次第に追い込まれるのがせづねえ。

山守のオヤジはPART3にしてそのキャラクターを見事に掴みきり、槇原は相変わらずヘタレており、槇原よりヘタレな打本、江田と松永の言うだけ番長ぶりもお見事、唯一広能の味方になるのか・・・?と思われた旭ですら、結局バランス・オブ・パワー重視の政治的配慮で大きな流れに飲み込まれてしまった。孤立する広能を助けたのはPART1に続きまたもや梅辰、ただし若杉からの復活で明石組の岩井としての立場からである。従って、若杉のような純粋な任侠道的発想ではなく、あくまで明石組の広島進出という政治的な力が作用するというのはなんとも。ここにきてヤクザ映画から暴力を背景にした政治ドラマへと、シリーズの作風を最も色濃く出している作品になっている。

ミーハー目線:アキラかっこいい!!!!アキラがセリフを言う度に心の中で「かっけー」とつぶやいていた。美空ひばりとの離婚会見で山口組三代目・田岡が同席したのはこれより前だったのだろうか、その後借金問題などでスター街道からは外れてしまったが、それでもアキラは最強クラスのスターだと今でも思う。

仁義なき戦い2 広島死闘篇 ★★★★☆

戦後まもなくの広島呉、山守組を離れた広能昌三と村岡組組員山中・大友勝利らの話。

PART2は本筋を離れ山守組の連中はあまり目立ちはしない。ただ後の重要人物となる江田(山城新伍)や松永(成田三樹夫)はここで登場する。実質、山中と勝利の物語である。

PART2にして恐らく最もカチコミシーンが多く、つーかこの頃の勝利は血の気が多すぎてなんでもかんでも当たり散らすまさに爆弾小僧な印象なんだが、室内での乱闘シーンが多いので、正直画面がぶれまくりよくわからない状況が多い。当時はこのカメラワークもかなり意識して作られていたようで、「このブレが逆に乱闘の臨場感を醸すだろうから、フィックスでなく手持ちで撮影する」ということになったのだろうか、しかもこういう撮影だとやり直しがきかず一発勝負であるため、実質どのように撮られても使わざるを得ない。要するに、見づらい。このPART2は勝利の動と山中の静の描き分けで十分魅力的だが、乱闘シーンのごちゃごちゃぶりについてだけ不自由だった。

ミーハー目線:成田三樹夫が最強すぎる。あのコブシのきいたような話し方はいつからやり始めたのだろうか。