仁義なき戦い ★★★★★

 戦後まもなくの広島、山守組組員となった広能昌三とその他の話。

急に仁義シリーズを最初から見たくなり、とりあえず本編PART5まで一気見することにした。この感想は一気見後のものであり、単体作品としてのものではない。今回はシリーズ1作目にして最高傑作、広能昌三の魅力全開なPART1。

PART1では戦後の混乱期、チンピラ連中が既存の実力者の下に連なり徒党を組んだこと、それが後の山守組結成に至った経緯から、組織が次第に大きくなるにつれて内部の権力闘争が起こる様を描いている。シリーズの主役である広能昌三は本作中で2度も刑務所に服役し、彼がいない間に山守組の上層部(かつてのチンピラ連中が規模の拡大に伴い自動的に偉くなった)に軋轢が生じて、あくまでカタギでない極道の筋を重んじる広能と、金や出世など己の欲を重視するその他の連中との葛藤が見所である。

したがって本作における広能は、演出上のコントラストをもたらす触媒のようなものであり、ストーリー上重要なキャラはまず組長・山守、兄貴分・若杉、同期の坂井・槇原・上田など、広能を時代に取り残していったり、同じ考えを抱いたりの連中が中心になる。

中でも印象深いのは山守夫婦だ。この二人は全編にわたり、ケチ・ずるい・卑怯・セコい・エロいという、人間の欲の中でも最低な種類の性格を具現化した存在であり、であるからこそ緊迫感のある本物ヤクザ連中の中では(後の打本と並び)際立つダメキャラである。またキャラとしてコミカルな山守は目立って当然だが、それに随伴しベストのタイミングでトスを送る山守の女房もえげつない。

結果ほとんどは死に、最低の組長とヘタレの槇原が生き残るというのも諸行無常な感じで良かった。槇原はなんとPART5まで生き残り、山守夫婦や大老らを除くと広能と共に残った初期メンバーということになる。

ミーハー目線:若杉の兄貴がめちゃんこ格好良い。梅辰はこれよりちょい前ぐらいに不良番長シリーズを当てており、恐らく一番良い時代に「広能と共に任侠道を追求する粋な極道者」を張れたのではなかろうか。この後アンナが誕生し羽賀健二のトラブルに巻き込まれるんだからすげえギャップだなあ。

ペテン師と詐欺師 ★★★★★

裕福な女性を詐欺して大金を得ている詐欺師と、その男に弟子入りしたペテン師の対決話。

「端的にいえば詐欺師は役者であり信頼関係など心理的な刷り込みを行うのに対し、ペテン師は口先やもっともらしい理屈を使い、損得の価値観を操って被害者に利益があるように錯誤させ、金品を騙し取る者。」 – Wikipediaより
という違いらしい。

中盤あたり、女が実は歯磨き粉会社のオーナー子女でなくミス歯磨きで、5万ドル払うと文無しになるというのが暴露されたあたりから、本筋とは別の可能性も感じられ実際その通りだったのだが、見る側の予想と実際の結果が同じだからと言って、面白さが損なわれたわけではないのが本作の出来を良く表している。ストーリーは一本道でわかりやすく、時代的にも演出は洗練されていないが、この観後感はなかなか感じることはできない。

この仕掛けというのがよく出来ていて、詐欺合戦という設定上様々な秘密や嘘が手段として用いられるのだが、これらは見る側に全て公開される。一方、メイン登場人物三人のうち男二人はそれぞれ片側(自分)の秘密や嘘についてしか知らず、女については(形式上)何も知らされていない。つまり本作の場合、序盤で情報は見る側のみに全てオープンにされるので、目的に対して使われる嘘や方便・秘密がそれぞれ一々意味を持ち、やがて目的へと収束していくので能動的にならないわけがないのである。

だから男二人が結局女にしてやられた後も、「なんでそんな簡単にひっかかるんだよ」だとか「詐欺しようとして逆にハメられて馬鹿じゃねーの」とかいう感想は一切無く、まるでスポーツの好ゲームを見た後のような、お互いの健闘を称えたいような気持ちになった。ペテン師の動と詐欺師の静が明確に使い分けられ好対照なのもわかりやすい。ハメられた後二人が「いやーすげえ女だなあ」となった後ですんなり別れるというラストでも、その潔さが落語のサゲのようで十分満足いくほどである。

ところがこれでストーリーは終わらなかった。見る側の(少なくとも俺の)予想を上回るラストにさらに満足度は高まった。潔さから一転ルパンの不二子オチのような爽快感に大満足の終幕だった。

キリング・フィールド ★★★★☆

ベトナム戦争に関連したカンボジア内戦に巻き込まれたアメリカ人記者とカンボジア人記者の話。

本作はクメール・ルージュの大虐殺と、アメリカがその原因を作ったにかかわらず放置した事、この2点を生々しく描くことで政治的なメッセージを表しているが、内容はディス・プランの物語である。欧米人ジャーナリストに囲まれて一人カンボジア人であり、時に疎外感を感じたり、また逆に仲間が出国のため奔走してくれる姿を見ていると、すんなり彼に感情移入していった。だからこそ、強制労働からの脱走~タイ脱出までの道のりは鬼気迫るものを感じ、また演出でもその流れを寸断することなく一気に見せた事が功を奏していた。

オリジナルの英語版ではどうなのかわからないが、カンボジア語に日本語字幕が表示されないのは結果的に良い効果だったと、見終わると感じる。見ている最中は「これはどんなことを言っているのだろう」と状況から推測し、時によくわからないままストーリーは進んでいくのだが、これが不安感や緊迫感を煽り映画全体を締めたように感じる。

内容やテーマはとても満足だが、音楽が良くない。記者達が病院からクメール・ルージュのアジトへ連行され、殺されるかどうかの瀬戸際にプランが命乞いをする一連のシーンにおける、なぜかやけに仰々しい音楽は全く場面と合ってなかったし、時代的にも「ランボー2」で聞いたような、「当時としては壮大だったんだろうなあ」と思うような安っぽいオーケストラ演奏も多く、とどめはラストのイマジンである。最初に書いたようにカンボジアにちょっかい出しながら、やばくなったらトンズラきめて放置したのはアメリカなのだが、それで「えんざーわーあああーうぃるびーあずわーん」はねえだろ。

ペーパー・ムーン ★★★★☆

身寄りの無くなった少女が詐欺師の男と旅する話。

ヴィム・ヴェンダースの「都会のアリス」つながりで知った作品。確かに「ダメな男と気の利いた少女」が「旅する」というのはそのまま当てはまるため、似てると言われるのもわかる。wikiを調べると両方とも1973年制作、ただし「ペーパー・ムーン」の方が公開日は早く、ヴェンダースも驚いたようだ。歴史上同じ時期に同じようなことを考えるという事はありえなくもないので、一応互いの関係は「関連性は全くない、ただし後発のヴェンダースには多少影響した」という感じになる。

というわけで、「都会のアリス」を見て良かったからそれに似ていると言われていた本作を見たので、ストーリーの骨子について言うこと無く面白い。本作で少女は男の詐欺行為に加担するようになり、その分ドラマ性も高いため娯楽作品としてはこちらがより楽しかった。展開がわかりやすく、多少御都合な部分があるが、ストーリーが良ければそれらはどうでもよくなるというのはどんな作品にも共通することだ。

印象としては「ペーパー・ムーン」は陽、「都会のアリス」は陰、になると思う。ラストシーンがそれを象徴していて、前者は二人が別離から再会しての再出発、後者は別離のための列車で余韻にふけるという違いがある。フィクションとしての見終わった後の爽快感や、「良い映画を見たなあ」と素直に感じられるのは前者だが、なんというかこう、見終わった後心の引っかかりを残すのが後者だと感じる。して俺個人としては、後者の方が好きだというのが自分自身の性格に合致してなんかこっ恥ずかしい。同年に同じテーマの作品が制作されたというのも非常に珍しいと思うので、二つ見て自分がどちらに寄ってるか認識するのも面白かった。

226 ★★★☆☆

二・二六事件の話。

二・二六事件は現役陸軍将校の内閣転覆クーデターで、主な決起者は自殺・処刑されたがその後に大きな影響を及ぼした。事態の収束のため広田内閣が新たに組閣され、その際「軍部大臣現役武官制」を復活させた。今で言うシビリアン・コントロールの放棄である。これがどのような意味かは、1年後の日中戦争突入とその後の太平洋戦争突入でよくわかる。

閣僚誅殺決行後、彼らは天皇からの追認を期待するのだが立場が弱い分なかなかそうもいかない。スローガンとして使われた「昭和維新」というのがこの事件の性格を象徴しているように感じられた。つまり彼らはかつての明治維新のような、名も無き若者が自らの意志で行動し社会を変革するという、時代がもたらすよくわからないエネルギーのようなものに憧れ、魅了され、それに陶酔したのだと思う。両者で異なるのは後ろ盾の有る無しだった。計画性の無さからも「維新」のノリでやっちゃったのは感じられる。

映画は事件発生~終わり、1936年2月26日 – 2月29日までの経過を描いていて、事件の背景や当時の状況は冒頭にナレーションによって手短に説明されるのみだ。よっていかにして彼らがクーデターを決意するほど追い込まれたのかはわからず、また陸軍内部がどういう権力闘争にあったかも、映画のみからはわからない。多少歴史を知っていれば情報としての「皇道派」と「統制派」の争いや思想的裏付けも多少わかるためなんとかなるが、映画冒頭からクーデターだと面食らう人が大半だろう。それで後半からの青年将校らの美化(なぜか家族思いを積極的に印象付ける)や死に際の潔さ、最後を「天皇陛下万歳!」で締めるあたり、若干の右翼的な臭いがしてくる。天皇を役者に演じさせないというのもその影響かもしれない。

思想的に寄っていようが個人的には「そういうもの」としてこっちで勝手に補正するので特に問題はないが、ただ歴史物として見て内容は薄い。歴史上重大な事件をタイトルにした割に、内容が将校らの事だけで軍や政治や社会全体の状況が見えないのも残念だった。見る前の期待感が大きすぎたかな。ただ一つ、ホテルを占拠した安藤大尉が言った名言「歴史は狂人が作る」はその通りだと思う。


太陽 ★★★☆☆

WWII終戦直前~直後の昭和天皇・裕仁の話。

本作は昭和天皇の人柄を描くという内容ながら、ロシア人監督が制作している。公開は2005年。なぜこの年なのかはよくわからないが、「なぜロシア人が制作したのか」という部分は皮肉にも日本人であるからこそよく理解できる。それほど、日本において天皇周辺をモチーフにして表現の自由を適用するのはかなり困難であるということだ。

彼らは言うだけ番長でなく、実行する。過去何度も実行しているからこそ、無言の圧力に裏付けがある。ロシア制作の本作ですら、主義主張は全くなく、当時現人神として奉られていた裕仁が一般人になる過程を、その人柄を中心に描いているのみだ。

裕仁を演じたイッセー尾形は、映画の方向性によっては最悪彼らに実行される場合も想定されるわけで、この出演だけでも相当評価されるべきだと思う。イッセー尾形と言えばサラリーマンや変わった人物の形態模写で見せる一人劇が主だが、本作でもその延長線上で、昭和天皇・裕仁の形態模写をやっているようにも見える。独特の会話法や唐突な発言、「あっそう」、これらある程度一般に認知されている昭和天皇像をイッセー風にデフォルメすることでコミカルに見られる。占領後写真を撮影しに来たヤンキーがチャップリンのようだと「ヘイ、チャーリー」と裕仁に呼びかけるシーンがあったが、見終わった後でメタファーだと気付いた。焼け野原の日本とそれが一切影響していない天皇の立場とが、チャップリンのシニカルな演劇のようだ。

ということで、ロシア制作の天皇描写という点で見る前は色々想像してしまったが、まあ普通に考えれば、この辺が妥当というか、現在描写できるのはこのぐらいだろうな。昭和生まれと平成生まれの比率が逆転したらまた、状況は変わるかも知れない。


オーストラリア ★★☆☆☆

オーストラリアの話。

長い。この内容で3時間弱は体感でもかなり長かった。ストーリーは「意地悪な大地主と、それに挑戦する新参の弱小女地主」という勧善懲悪のパターンになるかと思いきや、2時間弱の所でそれは寸断され、WWIIの戦禍を加味した親子(厳密には違うが)の再会感動話に変わってしまっている。

これでは、それまで育ててきた悪役としてのフレッチャーが全く活かされないし、見てる側も消化不良でなんのこっちゃわからんし、かといって再会話が見るべき内容かと言えば過去にアホほど描かれた描写であるし、なぜ二部構成のような内容にし、時間を長くしたのかがわからない。敢えて「オーストラリア」というタイトルを付けているのだから、前述の前半部分の勧善懲悪をベースに、アボリジニの扱いや発展の歴史を描くので十分魅力的な作品になったと感じる。

実際牛追いに出発する前、カウボーイ+ミセス・ボス+子供+召使い+料理人+酔っぱらいという組み合わせで牛追いの旅に出かけるというのは、漫画のようだが道中の出来事に期待がもてるキャラクターの組み合わせだったのにあっさり死ぬし、水を求めてアボリジニの秘境に行くくだりもなぜかばっさりカットされダーウィンに飛んでしまうし、使えば面白そうな部分をことごとくはずして時間を削って、その分をなぜか再会感動にねじ込んでいるような印象だ。

とこのように、内容としてはいい材料を活かしきれず中途半端に感じるが、ただし主演がニコール・キッドマンということで、そのパーフェクト超人ぶりは少々の年齢を重ねても揺らぐことなく相変わらず見栄えが良い。前も何かの映画で書いたが、単なる美人さんというよりは存在として魅力的である。

闇の子供たち ★★★☆☆

タイの幼児売春と違法臓器移植の話。

安いエンディングテーマとともに、「もしあの子達が人身売買されず、田舎で普通に暮らしていたらの想像図」が挿入されたところで、くりいむ上田の如く「火サスか!」と心の中でつっこんだ。本作のように、テーマ自体を扱うことで骨太のストーリーが紡ぎ出される類の作品に、最後「実は児童売買を追求していたまさに本人が、ペドであった」のような、サスペンス的どんでん返しは全く必要ない。

本作の主旨は恐らく、トラフィッキングと言われる人身売買・売春・臓器提供・強制労働のような、現実としてある社会の陰部を生々しく描くことにあると思う。そうすることで本作を見た者はこのような状況を認識し、最低でもこういう事がなくなるように願ったり、あるいはなんらかの行動を起こすかも知れない。誘惑に負けそうな時、本作を思い出して思い留めただけでも、役割は達成しているだろう。ストーリーはこの主旨のもと進行し、それらがいかに劣悪であるかを伝えるに十分な描写だった。子供達を買う大人の醜さは何度となく登場し、ブヨブヨの体は象徴的なモチーフとなっている。だからこそ、最後のどんでん返しは蛇足も蛇足、映画自体の評価を一変させるほどの酷い結末である。

この予兆は少し前から見られる。NGOのリーダーが人身売買反対を叫ぶデモで、それまで一緒に働いていた男が実は闇組織側のスパイだったという、そして何故か彼は自殺願望者の如く公衆の面前で銃を抜き警察とドンパチをやってしまうという、マンガのような展開はそれまでのシリアスな展開とは大きく異なる。

ではなぜこのような展開になったのか少し考えた。マンガのような裏切りと、無意味などんでん返し、この二つから考えられるのは「エンタテイメント性・フィクション性の付与」である。作品としての過激さを緩和するためのバランス措置というか、最後の方で帳尻合わせれば、このようなリアルさに嫌悪感を抱く連中にも言い訳が立つという、特定の観客に対する逃げ口である。またペド男とカメラマンが、組織側の男と買収済みの警官に銃で脅されるシーンで「お前らのような日本人を見るとクソな気になる」みたいなセリフを言ったが、まさにそういう、東南アジアなどに行って児童買春をやったことのある連中に対する、「過去のはチャラ、これからはナシで」という配慮を含んだメッセージのようにも思われる。

売買春そのものは、歴史の流れから考えても未来永劫無くなることはないだろう。かつては男権社会の犠牲だったり、貧困だったり、ほとんどが受動的なものだったが、現代では手っ取り早く金を得られる手段として能動的に行われる場合もあるからややこしい。ただし、本作で描かれた児童売春や日本のいわゆる「援助交際」などは、例え能動的であっても責任能力に問題がある。ペドの自覚がある人は是非本作を見て、今後どうするか考えてもらいたい。



ペドの人はなんとかこういうので我慢して欲しい

都会のアリス ★★★★☆

アメリカからドイツへ帰郷する男が偶然知り合った女性に娘を託される話。

ヴィム・ヴェンダース初期の作品ということでもちろんテーマは旅、ロードムービーである。彼の描く旅は基本楽しくない。総じて虚無感や、未達成・敗北などという、旅が本来備えている非日常への期待というよりは、非日常へ挑戦した結果ダメだった者の、「行き」というより「帰り」の印象が強い。

男は雑誌かなんか(イメージとしては飛行機に乗ると網に挟んである機内誌の旅特集)の取材でアメリカの印象を捉えようと試みたものの、多様な印象を表現できないでいる。アメリカからドイツへ向かう行程は、娘と関わることで移動から旅となり、その日暮らしに近かった男の時間は、娘の家探しで意味を持つ。この変化はアメリカでは獲得出来なかった実体験のイメージ化を、必要から導き出すことにつながった。移動・食事・休憩・宿泊一切に子供の事を考えた意味が生じ、二人の関わりで互いに生気を得ていく過程は面白い。

映画であるから、「やがて家は見つかり二人は離れる」というゴールは早い内に想像できる。しかしその過程をこれほど魅力的に描くのは、静寂が見ている側にも心地よく作用するからだろう。ほんの少しだったが、二人が親子のように振る舞う時間、体操や写真を撮るシーンはこれからも記憶の断片に残りそうだ。つーか卑怯ではあるが、オーディションで映画の主役級に抜擢されるほどのポテンシャルを持った少女が、小憎たらしいと、必然的に魅力的である。

許されざる者 ★★★★☆

1880年代、かつて列車強盗殺人で名を馳せたマーニーが、引退して10数年後に賞金稼ぎの殺人を実行する話。

ジャンルは西部劇だがど真ん中のそれとは少し趣が異なる。保安官(または正義のガンマン) VS 悪党という構図はそのままに、本来街を守る側の保安官を権力者のデフォルメとして据え置き、街の保守性を維持するために強権的に問題を解決する独裁者の如き扱いになっている。逆に悪党は、そういう保安官の強権によって泣き寝入りさせられた社会的弱者のかわりに、敵討ちを実行する正義側の扱いになっている。

このように立場が逆転することで、通常のガンアクションでは重んじられない殺人の重大さが強調されるように感じられた。通常だと最後の対決に至るまでの過程の中で、そうする必然性が十分説明されるため、見る側は思考の余地無くアクションはアクションとして捉えることができるが、本作のようにアクションの理由に十分な裏付けがない場合、その意味が際立つ印象になっていった。つまり、殺人や死がガンアクション的な必然でなくなったということだ。

だから、売春婦達の敵討ちが風聞とかなり異なるつーか、風聞はメチャクチャ大袈裟であるという現実に直面した際に、悪党側の3人は3者3様の受け止め方をするのである。最も合理的な反応をしたのがネッド、彼は死をもって償わせるほどの罪ではないと判断し、ついに引き金を引けずに舞台からも去ってしまう。ある意味これが一番リアルな反応だ。次にキッドの反応は、理不尽な殺人を実行することで、その重大さに気付かされるというものだが、これも変な話フィクションにおけるメッセージを示すものとしてよくあるパターンではある。

そして異様なのがマーニーの反応である。彼はこの正義が理不尽なものであると気付きながらも、ついにちゅうちょ無く殺人を実行してしまう。その理由は殺人の少し前、彼が死線を超えるかどうかの病気(高熱)から生還したことが影響している。当時の1000ドル(333ドル)がどれほどの価値かわからない以上、あの描写をターニングポイントと捉えるのが妥当だろう。

こうして意味の分からない殺人さえも実行可能となったマーニーにとって、西部劇的な最後のガンアクションは、通常のアクションとはかなり異なってくるのである。つまり通常の大ボスであるところの保安官の存在はシンボル力が薄まって、その周辺にたむろする「雑魚キャラの理不尽な死」が際立ってくる。あの時、保安官の指示に従いネッドをみせしめにした酒場の主人だけが、その殺人の理由を説明されたのみ(覚悟が必要うんぬん)で、まわりに居合わせた保安官の頭数合わせ要因は完全なる犬死に、無駄な死でしかない。この視点の変化が、一風変わった作品の印象に繋がっているように感じる。ヒューマンドラマ的な西部劇だった。